Satellite Rides / Old 97’S (2001)

    Roots          ★★

    Pop          ★★★★★

    Rock       ★★★☆

    Alt.Country ★★★
 


『Satellite Rides』というタイトルは私にとって実に相性の良い題名である。何故といえば、90年代で個人的No.1アルバムであるCounting Crowsの最高傑作が『Recovering Satellites』であるし、80年代のベスト・ファイヴァイリットバンドの1つであるThe Georgia Satellitesにも「Satellite」の名称が絡んでいる。であるから、このアルバムは購入前から期待十分であった、と言いたいとこであるが、実際は1999年に発売されたフルレングスとしては4枚目のアルバムである『Fight Song』が個人的にかなりがっかりアルバムであり、昨年はアルバムデヴュー前のアーリートラック集を出すという、何となくトーンダウンしていくパターンのバンドであるという感じがつきまとっていたので−レア・トラックとかアーリー・トラック集を出したバンドは個人的に下り坂になっていったバンドが殆どであるため。一般論では勿論ない−あまり期待していなく、初回プレスにボーナスとしてつく5曲入りライヴCDSが付くので取り敢えず買っておこうという、輸送費用のコストパフォーマンス・アップのためにオーダーをかけた、というところが本当のところである。
更に懺悔(違う)すると、このバンドを聴き始めたのは1999年からである。メジャー・レーベルであるElektra Recordsに移籍の余勢を駆って、3枚目のアルバム『Too Far To Care』を1997年にリリースし、日本盤もリリースされたが1000枚も売れなかったそうである。必然的にそれ以降は日本盤の発売も打ち切られている。筆者が情報を戴き、初めて入手したアルバムがこの3rdアルバムである。パンクとポップ、そしてカントリーテイストが同居したサウンドにモダンロックのテイストが絡むモダン・ロカビリーというか電気ロカビリーという、些か珍妙な印象のあるアルバムであったが、かなりの好盤であったので、売れなかったのは不思議だが、その実不思議でもなかったりする。現在の大英帝国謹製バンドとモダン・ヘヴィネスが盲目的に持て囃される日本の市場では当然の帰結であると考えるからである。常の不満であるので、読んで戴いている方には食傷気味であるかもしれないが、この場を使いもう一言だけ言いたい。日本で良質なルーツロックやアメリカンロックが売れないのは、雑誌や世評を受け入れるままに聴いているファンにも問題があると思う。もう少し、レコード会社の「配給」する音楽だけでなく、自分で良い音楽を探す気概が欲しい。ネットが発達し、試聴の幅が拡がった現在21世紀、自分でアーティストを探索するフリーハンドは絶対にリスナー側、購買側にアドヴァンテージがあると私は考えている。安易に流行に囚われず、自分の音楽を探すことは決して時間の無駄ではないと信じたい。・・・・・まあ所詮はマイノリティーの遠吠えであるのだけど・・・・・。さて、これ以上愚痴を言っても全く容量の無駄使いというプラクティカルな事情もあるので、話を元に戻そう。3枚目の『Too Far To Care』はかなりお気楽なロカビリー的なカントリーテイストに、モダンな影がちらつく出来で、やや中途半端な感は否めなかった。やはりメジャーへ移籍したとはいえ、ややネガティヴな意味合いでインディ臭さが残っていた。この辺の微妙なインディっぽさを巧みに整理すると非常に美味しいアルバムになるのだが、かといってモダンロックやオルタナディヴの要素を強くしてしまうと、オルタナ・カントリーとしての魅力が激減してしまうし、難しいところである、表現的にも。とはいえ、オルタナテイストを増加させ、脱ルーツを目指したような人工的なビートやギター処理を多用されてしまうと、筆者的に大嫌いな方向性に傾いてしまい、彼らの4枚目の『Fight Song』はまさにそういった「ハズレ」アルバムであり、悪くはないのであるが印象に全く残らないアルバムであった。現在は何処かの箱の下に鎮座しているだろう。(合掌)キャッチーさやポップ面は健在とはいえ、かなりオルタナ・パンク的な処理を強めたアルバムで、ために、実を言うと9割方見放していたバンドなのである。こういった方向性を取り出すと筆者的には実に火曜日の不燃物ゴミに出したくなるアルバムを量産する可能性が多いので。繰り返しになってしまったが、期待は全くしていなかった。たまたま試聴した#1のファースト・ラジオシングルでもある『Killing Of All The World』が良さそうであったので、それにつられたという意図もあったが、「この1曲だけ」という危惧は依然として内心に居座っていた。が、珍しく不安は杞憂に終わってくれた。まず、全体的な印象であるが、実に自然体な形の良質なルーツロックアルバムであると感じる。これまでやや鼻に付いていた中途半端なモダンテイストは綺麗さっぱり消え去っている。とはいえアーシーさ満載のルーツアルバムになったというと、それも全く的外れである。先の例えが悪かったかもしれないが、ルーツアルバムというより、アーシーな香りを残滓として残した良質なパワー・ポップアルバムと表現した方が良いであろう。最初の3枚まで見られたカントリー・ロカビリー的な野暮ったさは全くなくなってしまっている。実に素直なギターを中心としたポップ・ロックを中心に据えて、西海岸ロック的な優しさも見受けられる創りになっている。とはいえ、出身地のテキサス州を何処かに匂わせる土臭い味わいはサザンロック的な豪快なメロディにしっかりと見られるので、筆者的にやや苦手なモダンテイスト一辺倒な音創りは全然縁遠いものとなっている。まだまだ煌びやかさには少々足りない箇所はあるのだが、王道的ギター・ポップサウンドといっても差し支えない仕上がりである。が、インディ・ギター・ポップに顕著な力の抜けたような軽さやB級的ヒネリサウンドといったマイナス面は皆無である。下品な表現で申し訳ないがインディポップバンドに多い「フニャチン」的脱力感が大嫌いな筆者のために製作された音のような気がしてならない。キャッチーという点ではほぼ満点であり、どの曲もガッチリとフックの効いたライトパンクの色合いを有してる。南部の出身バンドとしての豪快さでは、ソフィスティケイトされてきた分、やや遅れをとっているが、元来泥臭いリフで押しまくるタイプのバンドではないので、非常にバランスの取れたロックチューンで過不足は全く無い。重ねて言うが、よもやここまでのすっきりしたアルバムに仕上がってくるとは想像をだにしていなかった。もっと埃っぽい音か、モダンテイストを突き詰めたアーティフィシャルなビートが幅を利かすか、あるいはノンナチュラル・オルタナテイストを4thアルバムより進めた感じのアルバムになると漠然と想像していたので。ここまで気持ちの良いポップ・ロックなピース、しかもルーツテイストを嫌味にならないくらい加味したアルバムを届けてくれるとは。現在の段階で管理人的2001年Top10アルバム入りは固いところであると表明しておこう。・・・・まあどう転ぶかはまだまだ分からないが。(笑)兎に角、即効性もばっちりのアルバムで、先程述べた#1からの飛びっきりのポップ・ドライヴ・チューンに始まり、間髪を入れずに#2の『Rollerskate Skinny』のキャッチーなルーツ・ポップチューンが続く。力強い芯の入ったメロディに緩急のついたリズムが躍動する、これまた素晴らしいナンバーだ。#3『Buick City Complex』はやや哀愁の漂うしかしキャッチーなルーツ・ポップナンバーで、続く#4『Bird In Cage』のスローチューンからグンと盛り上がる派手さはないが、好トラックである。#5のヨーデル的ヴォーカルから始まる『Up The Devil’s Pay』は#10のスピーディなポップ・パンクナンバーの『Can’t Get A Line』と共に2ndリードのMurry Hammondがヴォーカルを取るが、南部的深みのある粘っこいメロディが多彩さを与えてくれる。しかし、Murryのややハスキーなヴォーカルはもう少しリードトラックを増やしても良いような気がする。無論、リード・ヴォーカルのRhett Millerの控えめな甘さの入ったヴォイスには全く不満は無いが。#6のこれまたポップなミディアムナンバーである『What I Wouldn’t Do』はシングルとしてカットして欲しいし、#9『Am I Too Late』のこのアルバムでは最も南部の豪快さが強いロック・ロカビリーナンバーも勿論激ポップ。#7『Question』のフォーキィなナンバーは非常に落ち着いて聴けるしっとりしたアクースティックさが心地良い。#12の『Book Of Power』はシングルになった#1と同じくらいエッジの効いたギター・ロックナンバーでこれが第一弾シングルになっていても良かった気がする程の気持ち良い疾走感溢れるナンバーである。#9や#11の『Designs Of You』のミディアム・テンポな曲は#2や#6と同じようにパワフルでアーシーさが同居するメロディがしっかりと入っており、全く捨て曲がない。最後の一番ブルージーなテイストが強い#13『Nervous Guy』が強いて言えばノンキャッチーなトラックであるが(とはいえポップセンスはしっかり根付いている)、ビターな締めとしては丁度良いかもしれない。あまりにポップ過ぎて疲労を覚えることがあるからである。まあ、そのくらいフックの効いたドキャッチーなナンバーが目白押しであるのだ。侮っていただけに印象はかなり強烈である。このアルバムばかり聴いている、という訳では決して無いが、晴らしく筆者の嗜好を東大寺の鐘の如くぶっ叩いてくれているので、期待していただける方は期待して欲しい。(ヲイ)少しでもこのアルバムの聴く回転を上げるため、ボーナスのCDSにも全く手がつけられないくらいであるからして、ハマリ具合を想像して戴けると思う。
さて、一応彼らについて述べておいた方が良いだろう。日本にも入ってきているらしいので購入自体はそれ程難しくないようではるが。初期から継続して聴いているアーティストではないので、後付けの情報であるし、ライヴも未経験であることをお断りしておく。まず、結成は1993年、テキサス州はダラスにて。グループ名の由来はこの事実から、決して結成年度からでないことは明白である。実は伝説的カントリーの重鎮Johnny Cashの50年代のヒット・ソングの『The Wreck Of The Old 97』の歌詞から引用したものだそうである。この2分弱のカントリー・ソングの歌詞は郷愁の漂う鉄道哀歌的な曲である。ちなみにJohnny Cashの2000年の新譜はTom Petty本人が参加した『I Won’t Back Down』を始めとして激渋アルバムである。これ以上健康を損ねて欲しくないと切に願う。
で、シカゴ拠点のBloodshot Recordsから1stアルバム『Hitchhike To Rhome』と2ndの名前の由来をそのまま持ち込んだような『Wreck Your Life』をリリースし(その前にカセットのみのミニトラックをリリースしているが)、3枚目からメジャー・レーベルのElektra Recordsに移籍し、現在までに5枚のフルアルバムをリリース。2000年に古巣のBloodshot Recordsから初期作品集のミニアルバム『Early Tracks』をリリースしたのは既に冒頭で述べた通りである。基本はオルタナ・カントリー的なアプローチを基本としたモダンテイストを取り入れたポップ&パンクなスタイルである。間違いなくこれまでのキャリアでの最高傑作である『Satellite Rides』のタイトルは中心人物であるRhett Miller(Lead Vocal&Guiters)とMurry Hammond(Bass&Vocals)の別プロジェクトであるカントリーフォークデュオのRanchero Brothersが2001年の夏にリリース予定のアルバム『In The Satellite Rides A Star』からの一部を抜き出したものであるらしい。こちらのデュオは完全なアクースティック・ユニットであり、1998年からライヴ活動を行っているとのこと。サンプルを試聴した限り、完全なアナザー・サイド的な方向性であるのでいまいち食指は動いていないが。この2人にKen Bethea(Guitar&Slide&Steel&Accordion)とPhillip Peeples(Drums)を加えた4人編成である。プロデューサーは初期3枚の集大成のようなアルバム『Too Far To Care』を手がけたWally Gagelが復活している。彼の携わったアルバムは非常に良い出来であるので、的を射た起用であると思う。ミキシングにはTom Waitsに Sheryl Crow、 Crowded Houseといったメジャーなアーティストに協力したTchad Blakeがクレジットされている。かなり充実したバックアップ体制であると思う。Rhett Miller曰く、「このアルバムに流れている気持ち良さはロック・バンドとして協力した成果さ。僕たちはお互いにより一層理解を深めて、気持ちが通じ合えるようになった。アルバムの写真を見てくれよ。いい感じだろ。」と、30歳になるフロントマンはかなりの満足を示している。「このアルバムはコンセプト・アルバムじゃあないけれど、愛の始まりとその終焉のパターンをなぞったものだね。」とコメントしているように、甘いメロディに合致したラヴ・ソング一辺倒である。前作のかなりラフで尖った方向性から自然体に回帰した感の強い傑作である。限定盤のライヴCDSが付いているうちに購入されることを強力にお薦めする。パワー・ポップやギター・ポップ好きな方には非常に堪らない出来のアルバムであるのは間違いない。無論、ルーツロックファンであればお気に入りになること請け合いである。やはり、「衛星」と名のつくアルバムは当りが多いと再認識を新たにしているところである。(笑)
  (2001.4.30)


   Welcome To Utopia / National Dust (2001)

     Roots            ★★★★

     Pop            ★★★★★

     Rock         ★★★☆

     Alt.Country ★★★★☆
     


  Utopia−Sir Thomas More作『Utopia』(1516年)に登場する架空の理想の国家が、この語彙の起源である。「理想郷へようこそ」。まさに私的「歓迎」アルバムである。
  つい直前に大当たりと書いたばかりで恐縮であるが、これまた大当たりな2ndアルバムが届いた。非常にウェル・カミングである。
  このアルバムを届けてくれたNational Dust、知名度からいくと、曲がりなりにもメジャーレーベルと契約して、売れなかったとはいえ日本盤も発売されたOld 97’Sとは比較にならない程低いとは思うが、本邦の場合五十歩百歩かもしれない。(苦笑)
  筆者の場合、インディペンダント・レーベル関連は米国よりカナダの方が零細なところではかなり詳しいので(自慢にはならない)彼らのような決して日本には輸入されずに終わり、大手のウェブ・ショップでも並ばないであろうアーティストの情報が入手し易い。(とはいえ生活には全く役に立たないのだが)
  何せ、彼らのデヴュー・アルバムである1998年にリリースされた『Blind Luck Ain’t No Luck At All』に至っては、初回プレスは400枚だけだそうである。それを持ってた私は・・・・・。(壊)
  と、明確に記述をしていなかったのでこの場で述べておくが、このバンドはカナダ産である。アルバータ州の冬季オリンピックで名前を知られる州都カルガリーを拠点として活動するローカルバンドである。この『Welcome To Utopia』で2枚のリリースを数えるバンドだ。
  いかにも埃っぽい印象の強烈なグループ名であるが、そう遠からずというところが正解で、カナディアン・ロックらしい素直なポップセンスに、アーシーなメロディが絡む典型的なオルタナ・カントリーバンドである。名前の意味合いは以下の如く。

  「北緯49度を合衆国側から越えた時、ここは自分の国じゃないと感じるのはたった今越えてきた風景が違ったものになっているからではないだろう?それこそが『National Dust』−カナダということなのさ。」

  というステイトにあるように、Dustという単語を埃と捉えるより、雰囲気と解釈した方が、それよりNational Dustをカナダをカナダとしている所以のアイデンティティと考えた方が良いかもしれない。まさに「埃」というより「誇り」ではないかと思う。
  実際、ある程度の期間カナダで暮らして、国境を越えて合衆国へ入ると非常に表現し難いのだが、やはり空気が違うというか違う国の臭いがある。実際風景も全く変化しないし、使うげん言語も同じなのだが、こればっかりは説明するより実際に感じてもらうしかないと思う。観光での越境では感じ取れないとは思うが。あ、交通標識等にフランス語の併記がなくなるのが顕著な差異であるとは思うが、やはり瑣末なことである。

  さて、瑣末な抽象論で紙面を費やすのも何であるので、早速この素晴らしいアルバムを届けてくれたカナディアン・ロックバンドについて触れていきたい。フロントマンは鳥の巣のようなモジャモジャ頭に黒ブチの眼鏡を掛けた真面目青年、Lorrie Matheson(L.Vocal&Guitar)であり、そろそろ30代になる筈である。
  「10年間での最大のレコードって何だろう?僕はずっと中古レコード店で働いていた。そこで大勢の客がビールや煙草の代金にする5ドルのためにアラニス・モリセットやパフィー・ダディのレコードを売り払っていった。何百万枚も売って、ポップス史上に残ると云われるアルバムをね。だけれどもバッファロー・トムやジャイアント・サンドのレコードを売り払おうというヒトは殆どゼロだった。何故かって、それは買ったヒトが本当に必要なアルバムだからさ。アーティストというものはレコードを売ることが成功と考えられているよね。何故ならリスナーがそのアルバムを欲しがる=セールスだからね。だけど欲しがるということと必要であるということは全く別なことだと思う。そして僕は人々が必要とする音楽を創りたい。」
  「何故、メジャー・レーベルと契約しないかという質問はうんざりするくらいされてきた。何故かというと、僕たちがカナダのバンドだからさ。カナダのメジャー・レーベルは国際的に(つまりアメリカ市場で)成功するというプロモーションを盲目的になぞるだけだ。明確なヴィジョンというものが無い。あったとしてもただドル箱に仕立て上げるということさ。つまりはお金だけ。」
  このようなコメントを見受けると非常に鼻持ちならない似非芸術家気取りと勘違いされそうなコメントである。つまり売れ筋を批判して、スノッブになっている孤高オタクのレッテルを貼られる危険性がある。が、彼は「1人でも多くの人に僕たちの歌を聴いて欲しいし、成功することはいいことだと思う。」ともコメントしている。要はプロモーション一辺倒になってしまったり(MTV飽食時代にも同様の批判がなされたが)、盲目的に流行の音だけを取り入れた安易な創作活動を批判しているのだと思う。
  筆者は売れ筋の産業ロックが大好きであったのでそれを批判する似非アーティスト的「自称リアル・ミュージックファン」を心から軽蔑しているので、Lorrieの意見にも同様な憤りを当初感じていたのだが、彼のインタヴューやコメントを読み、メールでやり取りをするうちに彼の言いたいことが理解できたように思えてきた。
  彼の尊敬するアーティストはBuffalo TomのBill JanovitzとPaul Westerbergを2巨頭にしてWilcoのJeff Tweedyらをしきりに挙げているが、要はセールス的に成功を記録してもしっかりと自分の方向性を堅持している創作活動がしたいという意思の表明に他ならないと思う。
  更に、現行の米国のつまらない音楽しか売れない現状への悲憤と、それに追随するだけのカナダのマーケットへの憤りが前述のコメントして露見したと思えば、特に後者は筆者の不満とばっちり合致している。これで、Lorrie Mathesonの歌が出来の良くない代物であれば全く説得力がないのだが、彼の創るレコードは素晴らしいので、どちらにせよ言うだけのことは実行しているという思いが強い。
  そのLorrie Mathesonであるが、詳しくは触れないが非常に辛い少年時代をそして私生活を送ってきた人である。しかし、そのストレスの発散的な要素は全く音楽性には出てきていないのは彼の人柄であろうか。彼はNational Dustを結成する前に同じくアルバータ州はエドモントンを基点に活動するパワー・ポップバンドであるPal Joyというローカルバンドにギタリスト兼ヴォーカリストして在籍していた。
  がフロントマン争いに嫌気が差して脱退。自分のバンドであるFire Engine Redというユニットをスタートさせる。この音源は聴いたことがないのだが、非常に興味がある。只今(2001年4月)に本人に問い合わせているが果たして入手できるかどうか・・・・。
  現行のバンドはPeter Clarke (Bass)、Ross Watson (Drums)のリズムセクションに1stアルバムでは準メンバーであったTim Leacock(Guitar&B.Vocal))が正式にリードギタリストとなり、4ピースバンドとなっている。脱退したオリジナルメンバー Gord Adamもゲストとしてギターを1曲で披露している。他のサポートメンバーは全てのトラックのB-3を弾いているMike Littleの他数名いるのだが、誰一人として知った顔がいないのはローカルバンドの面目躍如といったところか。(違う)
  さて、過去にバンドメイトと内紛でギクシャクした経緯から、バンドの和を事あるごとに強調し、ワンマンバンドで無いことをLorrieは主張しているが、他のメンバーも彼の才能を認めるコメントをしており纏まりは鉄壁のようである。演奏も非常に手堅く、アンサンブル重視のバンドオリエンテッドな音出しであり、レヴェルは非常に高い位置にあると思う。
  今作から曲創りにTimも参加を始め#7のロックチューン『Down Again』を単独で書き上げ、リードヴォーカルも取っている。ややヴォーカリストとしては心もとないが、曲は素晴らしいし、悪いヴォーカリストではないので数曲歌うというのは変化を与えるためにも良いことだと思う。
  曲は全てキャッチーでポップで適度にルーツテイストと疾走感がミックスされ、もう言うことなしな内容である。Old 97’sよりアーシーさというか埃っぽい仕上がりになっており、アップテンポな曲も多い。カナダのバンドに何故か共通する素直なポップラインにルーツのダイナミズムが絡んで、最上級のルーツ・ポップアルバムとなっている。
  パワーポップと呼んでも差し支えないだろうが、人工的な電子音は全く聞こえてこないので、サンプリングのチープさが苦手という方にも全く問題なくお薦めできる。
  あからさまにカントリー・ロック的な感じがするのは#8のアクースティックギターとハーモニカが美麗な『Before You Wear The Grindstone Down』と#9のミディアムタッチの『Sorrow Floats』がやや近いかなという具合で、後のトラックはルーツの魅力満載なポップ・ロックナンバーが目白押しである。メロディ的には全く申し分ない上に、特筆すべきはLorrieの書く歌詞である。あからさまなラヴ・ソングは殆ど見られず、微妙な人間関係の機微やアイロニカルな内面を歌ったり、日々の生活での鬱屈や葛藤を独特のユーモアというか非日常的な幻夢的観点を持ち込むことでユニークなかつ皮肉な世界を歌い上げている。
  彼のこれまでのハードな人生が上手く下地になって複雑ではないが示唆に富んだ面白い歌を創り上げる源泉となっているのは想像に難くない。幻想的というより非常に重い内容をサラリと諧謔的に歌えるところに彼の他のライターと差別化できる特徴があるように感じる。
  詩人としての力量は1枚目のライティングから遥かにレヴェルアップしているといえよう。さて、曲は1曲目の『Tragety Ann』から素晴らしくポップで疾走感と土臭さがてんこ盛りで、ぐいぐいと引き込まれてしまう。
  #2のポップ・ロックナンバーの『California』もパワフルで適度な泥臭さがストライクゾーンど真ん中である。
  #3と4『Too Far Gone』のパンクテイストが伺えるロックチューンも文句なしなナンバーであり、前半4曲のドライヴ感覚溢れるルーツ・ポップセンスで既に降参状態になってしまう。
  #6のタイトル曲は正統派パワー・ポップナンバーという牽引力があり、#5のスローナンバーの『Whyte Avenue Pinwheel』の後だけにその疾走感がより一層際立っている。
  #10のこれまたハモンド・オルガンが心地良くうねる『Miss Teen Priddis』や#11のルーツナンバーの基本のような『Turnaround』に根付いたポップセンスは良質と表現する以外に手法がない。
  #12のアクースティックなリフから導入されるミディアムチューンの『Hell Is Other People』もラストトラックの『Water Into Wine』(歌詞が非常に暗喩的な人生の歌である。)力強さも敢えて書き記すより聴いてもらった方が早い筈である。中心人物のLorrieはラジオに乗るような曲は書いていないとのことであるが、全曲ラジオで何時かかっていても全く不思議でないくらい聴き心地の良いポップでアーシーさを有している。彼は「産業ロック」という言葉が嫌いらしいが、これは十分産業ロックの魅力があると思う。彼は不快に思うであろうけど。
  自然なサウンドでここまでのロックの魅力沢山の心地良さを創れるとは、素晴らしいとしか言い様がない。これは強力推薦である。是非、彼らのDustを鼓膜一杯に感じて欲しい。なお、このアルバムのカナダでのリリースが2000年12月2日であり、一般商流に乗ったのが2001年である故、リリースは2001年としてある。ご了承願いたい。
  (2001.5.1)


   All About Chemistry / Semisonic (2001)

     Modern        ★★★★☆

     Pop         ★★★☆

     Rock       ★★☆

     Alternative ★★


このアルバムにして漸く日本盤を購入する次第となった。1枚のミニアルバムというかEPを含めて以前のリリース作は全て輸入盤か海外で購入したものであったので。というか日本で全てのフル・アルバムがリリースされているとは最近まで知らなかった。日本でも物凄く売れ線のロックバンドでは決して無いと思うので、特に大したセールスも記録していない1stアルバム『Great Divide』が全米・全英でヒットした前作『Feeling Strange Fine』の余勢を駆ってリリースされたものではなく、ちゃんとオリジナルのリリースと時を同じくしてプレスされていたのは意外である。いったい日本盤の発売基準は何かと頭を抱えたくなってしまう。・・・・・・・・といった愚痴はどこかに置いておこう。どうも鬱屈が激しくなっている。最近日本盤で購入したアルバムが総外れなためだろう。
このアルバムが発売される前にこのジャケットとタイトルをネット上で閲覧したが、何となく嫌な予感がした。1枚目の『Great Divide』(以下GD)の絵本的なイラストのジャケットにしろ、2枚目の『Feeling Strange Fine』(以下FSF)のモノクロームなスナップといい何故かSemisonicのジャケットはそのアルバムの音楽性に通じるものがあるような気がしていたからである。1stアルバムのナチュラルなサウンドといい、2ndアルバムの少々落ち着いた感じが出て来たサウンドといい、音の印象が非常にジャケットと個人的に合致するバンドであったからだ。で、この3枚目のフルレングスの題が「化学の全て」=『All About Chemistry』であり、ジャケットが試験管とフラスコを擬人化したような、いかにも人工物という主張が強烈な印象であったため、ひょっとしてアーティフシャルなロックに傾いてしまったのではないか、という危惧があったからである。実際は、当たらずも遠からずといった印象である。デヴューアルバムでみせたシンプルなロックさや、2枚目で披露したアクースティックな側面よりも遥かに手の加えられたモダンロックバンドとしてのアプローチがより強まっている。これまでも3ピースバンドながらメンバー全員が達者にキーボードを弾けるため、かなりの鍵盤を導入してきた彼らだが、このアルバムではさらにサンプリング類の使用頻度が高まっている。前作でも殆どのトラックでピアノを含め、フェンダー・ローズピアノやムーグ等の導入が顕著であったが、どちらかというとウエットな音出してアクースティック・ピアノが心地良かったアレンジに比べて、今作はサンプリングかアクースティックなのか判断がしにくいアレンジの浮遊感のあるキーボードアレンジがなされているように思える。また、メロディ的にもかなりポップではあるのだが、どちらかというとアメリカン的な直線的なキャッチーさというよりも英国産ポップスの冷静な一歩引いたセンスが顕在化しているように感じられる。元来リフのタテノリで押していくバンドではないので、アメリカンロックの権化のようなポップセンスより一歩割り引いたコマーシャルさが身上の音楽性が彼らの魅力ではあると思うので、ポップさについてはかなり良好とは思う。また、ブリット特有の捻じれヒネクレさは殆どないので、その点は非常に嬉しい。尤も完全に英国風のサウンドになってしまったら殆ど聴かずに放り出すだろうが。(笑)正直、そこそこのアルバムであるとは思う。が、GDやFSF程良くはないと最初に述べておく。少々シンセサイザーやループ、打ち込み系の音が目立ち、ストレートなロックバンドとしての魅力が半減しているように思えるからだ。モダンロック=手を加えた音、という範疇分けはあまりにも安直ではあるが、最近はそう呼ばれて然るべきバンドも多いのは事実であるし。ただ、セミソニックは何とか個人的ボーダーラインの内側でアルバムを創ってくれた。これ以上オーヴァープロデュースになってしまったり、打ち込み系の人工サウンドの比率が増すとかなり聴くのが筆者的にはつらくなってしまう。そこまでは達していないのは幸いであるし、また持ち前のポップセンスは健在でこれまた英国風ではありながらまだアメリカンな魅力があるので、やはりまずまずのアルバムという印象になってしまう。彼らのグループ名の由来である『Semisonic』はメンバーのDan WilsonがカナダのロックバンドであるSloanを他のバンドの友人と聴いていた時、その友人が「Why does everything have to be this Semisonic bullshit?」(全く賛成。ノイジーでポップな音は直ぐに飽きるし、耳障り。)と漏らした感想から取ったものであるそうだ。ちなみに筆者はSloanをデヴュー前から、トロントに在住であった関係も有り知っていたが、周囲で騒ぐほど好きにはなれないし、今でもあまり好きではない。それはともかく、Danは名前の意味合いを「ノイジーなソニック・ロックと艶っぽい格好よいソウル・ミュージックの間に位置する自分達固有の音楽性を持つ」という創作姿勢の表れとしているが、今作ではノイジーなオルタナサイドには全く移行する気配はないにしろ、「半分ソニック・ロック」ほどはロックンロールしていないと思う。ちなみに「Sonic Rock」とは最近良く耳にするが、メロディ・パンクとハードロックとオルタナを足して割ったような音と考えればよいのだろうか?どうも不勉強かカテゴリーの意味合いが分からない。どなたか定義を教えて戴けると幸いである。またもや脱線しているが、やはりしっとりしたナンバーが増えたFSFより更に落ち着いたアダルト・ロックになってきた感が強い。それはそれで歓迎すべきことではあると思うが、やはり少々消化不良である。例えば#2の『Bed』の打ち込みビートの効いたモダン・ソウル的なR&B風のナンバーや#4の『She’s Got My Number』のサンプリングがチョロチョロ鳴るこれまたリズム系のナンバーはどうにも苦手である。また#6『Sunshine & Chocolate』のオルタナ・ミクスチャー的なギター処理がかなり個人的には不満であるし、#7の『Who’s Stopping You?』もまたもやロックよりリズムが強調されたナンバーでいまいち。総じて鍵盤を流麗にリズムに乗せていた2ndアルバムFSFとは異なり、キーボードをループやシークエンサーと同様にリズムとして使用している最近のミクスチャーロックに膾炙している手法をとっていることが一番の筆者的な不満点であろう。日本盤の解説にもあるがDanはこのアルバムをプリンス風にしたかったとか。・・・・次回は是非とも辞めて欲しい。(笑)日本盤のボーナストラックとして#11『Girlfriend』と#12『Over My Head』の2曲が入っているが前者はムーグがピロピロ鳴るモダンナンバーの典型のようであるし、後者はやや暗いミディアムナンバーで、ボーナスとしては悪くないナンバーであるが、あまり得をした気分にはならない。流れを壊してしまうボーナストラック特有の弊害がないだけ良かったというべきであろう。
さて、ネガティヴな意見ばかり先行させてしまったが、ここまで不満を述べつつもしっかり聴けるのは、メロディがやはり素敵であるからだと思う。ファーストシングルとして全米でも頻繁にオン・エアされている#1『Chemistry』はセミソニックの面目躍如的な名曲である。多分ピアノでありサンプリングではないと思うが、兎に角ピアノの軽快なジャンプに乗せて展開するキャッチーな流れはやはりセミソニックがメロディ主体のバンドであることを再認識させてくれる。SEのノイズは余分であると思うが。そしてしっとりしたバラードの#3『Act Naturally』やスローナンバーの#5『Follow』はしっかりと歌を聴かせてくれる曲である。ややリズムボックス使用のような打ち込み音がマイナスではあるが。#8の『Wish』や#9『One True Love』(Carole Kingとの共作)のように今回はスローナンバーが目立つが、メロディの良さやDan Wilsonの優しいヴォーカルが際立つのは今回はバラード系のようである。そして数少ないロックナンバーの#10『Get A Grip』はやはり個人的に非常に好きなナンバーである。もう少しロック・チューンを増やして欲しかった。#13の『Surprise』のような力強いミディアム・ナンバーももっと欲しかった。それでも及第点以上に仕上げているのはさすがというべきか。単に筆者の感覚が一般の流行からずれていて、これは名盤かもしれないが。(笑)
タイトルの由来等に関してはライナーノーツを読んで頂ければ問題ないだろうし、製作過程のことも言及されているのでそちらを参照して戴ければよいと思う。ああ、日本盤が出てると楽やなあ。(手抜きやんか)作詞に関しては内省的な歌詞が目立った前作より、オープンな人間関係というか男女間の機微について触れている唄ばかりのような気がする。Dan曰く、「FSFの時は殆どの歌を独りの人から耳元で囁かれる秘密のように書いた。けれど今回は大きなパーティで沢山の友達がいることを思い浮かべて書いた。誰もがほんの少しだけ忘れられないことをやってくれて、また誰もが忘れてしまいたいことをやってくれたようなパーティをね。」確かに不特定多数の心情を代弁しているような歌が多いと感じる。
さて、彼らも中庸ロックの聖地、ミネアポリスの出身であるがJayhawksのようにオーヴァプロデュースになって欲しくないと切に願うこと大である。間違っても道は踏み外して欲しくない。。メンバーはDan Wilson(L.Vocal&Guitar&Keys)、John Munson(Bass&Keys&Vocals)、Jacob Slichter(Drums&Keys&Vocals)の3ピース。バイオ関連はいずれFSFをレヴューするのでその時に詳細を書きたいと思う。(そればっかしやんか!)メンバー全員が鍵盤を弾くという珍しい3ピースであるが、特筆なのはドラマーのジェイコブが左手でドラミングしながら非常に上手に右手でキーボードを弾くライヴ・パフォーマンスである。これはかなり凄い。2001年のフジロックに来るそうなので、この必殺技は一見の価値ありである。が、ファンサイトを運営しているChieさんによると今回はサポートでキーボーディストが同行するらしいので、見れないかもしれない。残念である・・・・・。      (2001.5.5)


   The Green Hour / The Autumn Defense (2001)

    Modern             ★★★★

      Pop             ★★★★★

      Rock          ★★☆

      Contemporary ★★★★★


  脱ルーツの著しかったWilcoの3rdアルバム『Summerteeth』に近いと書くと、非常に語弊があるかもしれない。
  オルタナ・カントリー的アルバムを期待していた多くの(特に海外のリスナー)に失望感を与え、そしてアーシーでないライトポップ支持派には反対に非常に受けの良かった、このWilcoのアルバム。全くと言って良い程、土臭さがなかった。
  このWilcoのベーシストであるJohn Stirratがサイド・プロジェクトとして立ち上げたデュオユニットの『The Autumn Defense』は全く泥臭さや豪快なギターが聴こえないという点でWilcoの3作目に通じるところがあるということを、最初に述べておきたかっただけである。
  しかし、ここまでポップなソフトロック的アルバムをリリースするとは正直想像していなかったので、非常に意表を突かれた気がしてならない。まあ、正確というか意表を突かれたのは激烈なポップさの方であるけれども、どちらかというと。取り敢えず、ウィルコのベース弾きとして多忙な日々を送っているJohnが立ち上げた新ユニットについて分かるだけのことを述べておこう。
  元々彼には自分の曲をレコーディングしたいという願望があったそうで、1996年のWilcoの2nd2枚組みアルバム『Being There』のレコーディングとライヴのスケジュールを縫って、12〜13曲を書き上げ、WilcoのバンドメイトであるJay BennettとKen Coomerの強力を得てレコーディングをしようと計画していた矢先にBilly Bragとのコラボレーションであるアルバム『Mermaid Avenue』の製作が決定し、さらにWilcoとしての3作目である『Summerteeth』のレコーディングという具合に多忙を極めたため、漸く自分の曲でレコーディングをやりたいという欲求を思い出したのが、『Summerteeth』のレコーディングが終了し、ツアーに出るまでの数ヶ月の少々ゆとりができた時であると懐術している。
  その当時1999年初頭に、Johnが住んでいたニュー・オリンズに在住していたのが、もうひとりのメンバーであるPat Sansoneであった。彼らは長年の付き合いのある友人同士で、住まいの近所にあるレコーディング・スタジオであるKingswayという築10年の施設がお気に入りで、良く出入りをしていた。特に、Johnはこのスタジオの施設にインスパイアされた部分が多く、過去から暖めてきた企画を実現する場所はここだと感じたそうだ。
  で、その時自分のレコードを製作する傍らセッションをしていたPat Sansoneと音楽の趣味で意気投合。特にジャズの本場ニューオリンズでジャズの影響を直球的に受けなかった類似点といい、2人とも1967年の西海岸フォークロック的サイケ・ポップバンド(何やそれ)のLoveの名盤「Forever Changes」の収録曲を全て諳んじれるくらいのフリークということを知り、JohnはPatをレコード創りに引きずり込むことを決意。そして、Patはアレンジとソングライティングを共同で行うこととなった次第。
  ちなみにJohnと比較して地名度が低いであろうPat。彼はどちらかというとニューウェーヴ系のポップバンドやジャムバンド畑の人である。シカゴ出身のAndrew Birdが結成したジャズとロックのフュージョンバンドのような、Steely Dan的な融合ロックのバンドAndrew Bird’s Bowl Of Fireにピアノとして参加し、スゥイング感覚たっぷりのピアノを披露してくれたり、2000年のMatthew Ryanのややオルタナに傾倒したロックアルバム『East Autumn Grin』でWill Kimbroughと共にピアノで参加している。
  いわば根っからの少々アーバンなプレイを好むピアノ弾きであるので、興味のある方はAndrew Bird関連を聴かれることをお薦めしておく。が、彼本来の鍵盤だけでなくこのアルバムではベースやギターもこなし、シタールやパーカッションまで担当している。それに比べるとJohnは基本的なピアノ、オルガン、ベース、ギター、パーカッション−これでも十分にマルチプレイヤーであるが−と担当して勿論ヴォーカルはリードを取っている。
  このマルチなデュオに、Wilcoを脱退したドラマーのKen Coomerがほぼ全トラックでドラムを叩き、サポート。更に約3分の1の曲でフリューゲルホーンを筆頭にトランペットやトロンボーンがアナログシンセサイザーのような浮遊感のあるアレンジで取り入れられている。
  以前からの人脈か、ギターでWill Kimbrough、ベースでポップアルバムの職人Brad Jonesのゲスト参加がクレジットにみられる。非常に職人的なミュージシャンの協力で創り上げられた印象の強いアルバムで、緻密に練り上げられたポップアルバムという印象、アメリカ中部のミネアポリスやセントルイス周辺のポップバンドが製作しそうなライトな仕上がりの曲が並んでいる。
  彼ら2人の理想のアルバムであるというLoveのフォークポップなノリにモダンテイストを加えたような感じもする。
  60年代のブリティッシュ・ポップからの影響がとても濃厚に感じられる。Beatles的なポップさがあるし、またMonkeysの如く古き懐かしいコーラスワークが、60年代のムーヴメントの一形態であった西海岸のフォークポップを連想もさせる。俗な例えだが、Beachboys的な開放感と明るさが顕著に思える。

  まず、いきなりのフワリと鳴るフューゲルホーンの演奏からスタートする#1『Long Forgotten Love』から、このアルバムの方向性が窺い知れる。キャッチーなメロディに優しいギタープレイ、そして軽快に踊るピアノ。
  全く同じような流れのムーグのリフから始まるプログレ的半アクースティックでしかもエレクトリックなポップスの定番のような#2『Make It Through The Summer』は彼らにやや遅れること1ヶ月で2ndアルバムをリリースした、シカゴの同傾倒なドリーミーなポップバンドChamber Stringsとの共同作業の成果であるそうだ。無論、Chamber Stringsも彼らのレコードで同曲を披露しているが、非常に似通ったアレンジである。このアルバムが好きな方はそちらのアルバムも必聴である。(Chamber StringsレヴューとThe Autumn Defenceのレヴューは小林さんのサイトにも掲載されているので宜しければ目を通して戴きたい。)
  そして戦後から60年代に活躍したフォークの重鎮Woody Guthrieの名曲#3『Revolutionary』をJohnがフリューゲルホーンを絡めたAOR的でもあり、またアーバンフォーク的なアレンジで甦らせている。非常にメロウなアレンジで、70年代フュージョンブームを彷彿とさせるシンセのバックトラックも心地良い。
  そして哀愁の漂うアクースティックギターのリフからポップに展開する#4『This Kind Of Day』もJohnの単独作品の#5『Wellspring』もジェントリーなポップナンバーで、これまた80年代前半まで猛威を振るったAORロックの魅力が溢れている。
  シングルにしてもよさそうな軽快なチューンの#6『Full 5 Paces』を挟んで、ホーンセクションが奇妙なトラッド感を醸し出す#7『Recuperating From The War』はユニークな実験的なポップというトラックだ。この手の力の篭ってない歌はあまり好きではないのだが、脱帽なドポップなラインが不快感を与える暇もないくらい攻め込んでくるのでお手上げだ。(笑)
  #8『Under Electric Moon』はそのタイトルが彼らのアルバムを顕しているようなヴィジョンが浮かぶ。寝静まった都会の夜を流れる優しいポップスというイメージ。卑近な印象ではあるが。(笑)
  #9のややパワフルなミディアムバラード『Something Everybody Needs』から、さりげないしっとりとしたポップさが心を癒してくれるような#10、#11と、どこまでも繊細で、美麗で、やや湿ったピアノが耳に残るトラックは、詰まらない表現であるが癒し系のサウンド分類しても問題ないと思う。

  ものすごいポップなアルバムという前評判は聴いていたが、ここまでルーツのルの字も感じさせなくらいライトな透明感溢れていてしかも暖かく湿潤なポップナンバーが揃い踏みだとは思わなかった。
  Wilcoでは1stアルバムで1曲のみペンをとっているJohn Stirratであるが、全ての曲がWilco名義でリリースされた3作目の曲創りにかなりのパートで手を染めたのではないかと勘繰りたくなるくらいである。このユニットはこれで非常に良いのだが、問題は2001年夏のリリース予定のWilcoの4thアルバムだ。(レーベルとの契約破棄で2002年に延期になってしまっている。)JohnがどこまでJeffに影響力というか曲創りで手助けをするか、いまだ不透明であるが、Wilcoには正直もう少しオルタナ・カントリー的な味わいが欲しいと、このアルバムを聴きながら思う。
  (2001.5.9. 2001.10.29.加筆修正)


 Breath From The Season 
       / Tokyo Ensemble Lab (1988)

     Fusion                ★★★★

     Pop                ★★★☆

     Big Band          ★★★

     Contemporary Jazz ★★★☆


本レヴュー初の国産アルバム!!!
しかもロックでないやんけ!!!!
ジャケットなんかはもう夏満載!!!!!

然れども、この話を読んだ読者諸兄は恐怖に震え、寒気はベルホヤンスク(地理でお勉強しませう)
を上回ることを確約しまふ。

・・・・特にレヴューに行き詰まった故の救済措置ではありまへん。そこ、邪推はせんようにね。(笑顔)

ということで、お待たせの・・・・・・・・・・管理人の恥ずかしい秘密(ヲェ)後悔公開しりいず、
始めませう。


第三回   富士に立つ影(ヲイ)

京洛は北山、修学院近辺に、非常に特殊な生態系を育んできた池がある。
近年、その種の水生生物は絶滅に瀕しているとかいないとか・・・・・。
深泥池、読み方は京都のヒトに聞いておくれやす。
時代は今から約10年以上を遡ることになる。


当時、心霊現象が大好きな私は怪談の宝庫、古都の心霊スポットを夜間に徘徊するという
学生ならではの、ヒマな青春の無駄使いをしていた。
で、件の池だか、多分に漏れず、怪談がつきまとう。最も一般的なのが池の中央にある浮島が
夜中に動く(これ怪談かいな)とか、池で身投げしたヒトの云々という至極ありふれた怪談。

確かに夜中に行くと、閑静な住宅街の端に鎮座するこの池は、気味の悪い水鳥の声や、池畔に
佇む精神病院の鬱蒼とした影とかと相まって不気味である。

が、何回行っても、何ともなーんも起きない。

それでも通うのがマニアの性である。・・・・そうか?

・・・・・その日、私は掛け持ちのバイトをA.M.2時に終わらせ、疲弊した身体に鞭打ち、足代りの原付
で一路、池を目指した。時に如月、盆地の京洛は今にも雪が降りそうに底冷えしていた。
ああ、そのまま真っ直ぐ帰宅すれば、あの悲劇は回避できたのに。
しかし、運命の歯車は私をひたすら怪奇現象に誘うのであった。これは歴史の必然であったのだ
ろうか??バイクはひたすら真冬の大気を切り裂き、約束の地へ私を誘うのであった。
バイクに乗りつつヘッドホンステレオで軽快なフュージョン集、角松敏生のインストが流れてくる。
それ以外は咆哮するエンジン音のみが、私の世界。




次回へ続く








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





それはもうエエちゅーねん!!!







パッと、さいべりあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪(極寒)









外した・・・・・・・・・・・。やるんやなかった・・・・・・・・・。

気を取り直して

第参回  還らずの池にいけます。(北風ピープ、吹いている♪かなりダメ。)


時は草木も眠る丑三つ時。オリオンが天球を支配する夜空が凍りついて、
石をその夜色の平面に投げつけたら、割れて落ちてきそう。
ヘルメットとヘッドホンステレオを外してバイクの籠に入れる。外気に触れた頭が寒い。
その時、私は池の淵に立っていた。

水鳥が時折怪鳥のような鳴き声を上げるのが、冬の大気を揺らす。しかれど、池の独特
の淀んだ空気が凍りつきそうな大気を重く水面に張り付かせているため、乾いた冬の大
気が湿って感じられる。
耳元で鳴り続けたBGMがなくなったので、静寂が耳に痛い。
その時、私は池の淵に立っていた。

時折、遠くで自動車のエンジン音が聞こえるだけで、当たりは蒼黒い闇に沈んでいるわ。
そら、午前3時やしなあ。
その時、私は池の淵に立っていた。

水生生物が豊富な深泥池は、水際まで冬枯れた水草や水生植物が侵食し、まるで枯葉
色の絨毯のようや。ホンマに薄の野原みたいやね。
その時、私は池の淵に立っていた。

池中央の浮島はただ、御椀のように夜の向こう側に鎮座しておるだけやんか。
微動だにせえへん。
その時、私は池の淵に立っていた。

池特有の淀んだ水の臭いはそんなにきつない。寒いしね。めっちゃ冷えてきたやんか。
その時、私は池の淵に立っていた。

次第に空は灰色の雲に覆われていく。ああ、まさか雪降るんとちゃうやろな。
もう1時間立ちっぱなし。
その時、私は池の淵に立っていた。

腹減った・・・・・。寒い・・・・・・・。眠い・・・・・・・・。
その時、私は池の淵に立っていた。

・・・・端から見ると、たいがいにアホやんか、わて。別にカメラで心霊現象写して雑誌に投稿
する訳やなし。・・・・・・なんしか腹立ってきた。
その時、私は池の淵に立っていた。

クソ馬鹿!!こら、池のヌシでも幽霊でも何かやってみせい。こっちはずっと待ってんねんど。
あ〜寒い。腹が減った。昨日は殆ど寝てへんし、飯も夕方食うたばっかやし。
・・・・・もうダメ。
その時、私は池の淵に立っていた。

だ〜〜〜〜!!もう止め、止めや!!
帰ってクソして屁こいて寝る!!

その時、私は池の淵に立っていた。





が、その時、我々は見た(誰やねん)!!
(ドーン!!)
効果音です。水曜スペシャル風に



帰ろう思うて踵を返した時、生い茂る水生植物の茂みの中、私から2メートル程先に
何やら夜の闇に沈みつつ、鈍く光る物体が視界の隅に捉えられたのである。
その時、私は池の淵に立っていた。

その時、私は通常の精神状態ではなかったと思う。ほぼ徹夜でバイトを掛け持ち、氷点下
に近い外気に1時間以上晒されっぱなし、超絶な空腹。
そして視界に捉えられたのは枯草色の叢に浮かび出た鈍色の物体。
その時、私は池の淵に立っていた。

思わず、私はそれを確かめようと歩を進めた。一歩、二歩・・・・・・。枯草の絨毯を踏み分け。
その時、私は池の淵に立っていた。











と、思いきや・・・・・ドボーン!!!!!






「ほんげらげ〜〜〜〜〜」(魂の叫び&実際の叫びでふ)




そう、疲労の極限にあった私は、水草の下がすぐ
水面ということを失念し、足を踏み込んだのだ。
嗚呼、何と言う巧妙な罠。(アホ)




「へちゃめんこんぴらぴ〜〜〜」(上に同じ)




オマケに読んで字の如く、泥が深い池なため、足
を掬われた私は、バランスを崩し、枯草を貫き、
水面にフライング・ボデー
(戦前風)アタックを
お見舞いするという追加攻撃までサアビス
(大正風って
何がやねん!!)してしまったのである!!







「がぼ、げぼ、ごぼ、ツメタ、サムイ、シム」(パニック中)




時は如月、大寒。全身濡れ鼠。かろうじて起き上が
ることに成功したが、容赦なく外気が攻撃をかける。
その冷たさに、私は気が遠くなり・・・・。










翌朝、水死体が池の辺で見つかり
ましたとさ。・・・めでたし、めでたし。











・・・・・・・・・・・・・FIN










ホンンンッマにしつこい!!!!








これ以上アホに付き合ってられんわ、という方はここで一部完。哀れな「私」は土佐衛門。

まだまだイケル言う方は もう少しアフターストーリー(ヲイ)をお付き合い願います。

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