Tales Of The Scorpio / Ove Wulff (2003)

  Roots             ★★★★☆

  Pop           
★★★★☆

  Rock        
★★★★☆

  Alt-Country 
★★☆   You Can Listen From Here


 ◆Enzendoh解散、しかし北欧侮り難し

  しかし、今回のレヴューの関連バンドであるEnzendohを始めとして、The Scarecrows、The Thousand Dollar Playboys、Diamond Dogs、Elmerといった本国勢顔負けの良質なルーツロックバンドやオルタナカントリーのグループを生み出す土壌となっている北欧諸国は実に侮り難い。
  というか、‘基本の基本’を踏襲する面に於いては既に米国勢を優越する箇所が多分に見受けられる事が頻繁になってきている。これを米国ルーツ/オルタナ・カントリー勢の堕落や失速と見なすか、それとも北欧勢の成長と台頭と見なすかについては、今のところ微妙な線にありそうだ。

  現在、ルーツロックが最も持て囃されている中心は独逸や伊太利亜だが、音楽の供給先としてはいまいちな土地柄の模様である。何せ、このOve Wulffがリーダーを務めていたEnzendohのようなバンドが未だ筆者の知る限り排出されていないからである。
  Ove Wulffという、発音の語呂からして、アングロサクソン系でも地中海系でもなく、完全に北欧系の響きのシンガーは、その通り、スカンジナヴィア半島に位置する瑞典(スウェーデン)出身だ。
  この名前を知っている人は、十中の内十の割合で、Enzendohというバンドのファンに間違いない。
 
 これまでに、「The Sun Never Shines On Franks」、「In The Middle Of Nowhere」という、Ove Wulffが表現を借りればPower CountryというAlt-Country/Rock n Rollを満載した、超絶に優良なアルバムを2枚続けてきていたEnzendohだが、2002年の春先に解散してしまった。

  OveはEnzendoh時代について、それからこのアルバムの切っ掛けについて、簡単に述べている。

  「Enzendohというバンド活動を通して僕は学んだ事は、自分の脳内では漠然と完成している形を、音楽として具体化出来る耳を養えた事だね。そしてそれを2枚の良いアルバムに録音出来た事も大きい。
  でも、バンドは2002年に分解してしまい、まだ書きかけの未完成な曲を僕にたくさん残してくれた。」

  解散の理由に付いては不明である。が、それまでコンタクトがあったEnzendohのメンバーとの連絡が取れなくなってしまったのが、2002年の春先なので、丁度解散のゴタゴタで揉めていた頃と想像可能だ。
  筆者はOve氏ではなく、EnzendohのベーシストであるMickeさんと交流があったのだが、現在他のEnzendohのメンバーの去就は不明となっている。
  Enzendohについては、筆者の拙文が2001年に書かれているので、興味があったら目を通して貰えれば幸いだ。サウンドはmp3.comでも聴けるし、トップに貼ったOveのオフィシャルサイトでもダウンロード可能だから、是非。

  個人的に絶賛していたAlt-Country/Country Rockのピュアさを具現化したそのもののバンドEnzendohが解散したのは誠に残念だ。
  だがしかし、リーダーであり、ギタリストであり、ソングライターであり、そしてリードヴォーカリストであったOve Wulffがまた北欧を益々侮り難く感じさせるアルバムを引っ提げてソロデビューしたのだ。
  それが今作「Tales Of The Scorpio」である。

 ◆Enzendohの正統後継盤 が全くの引継ぎでもない

  基本的にライターとシンガーが同じであり、目指す方向性が変わらない。ために音楽的にはEnzendohの3枚目のアルバムと呼んで違和感の無いアルバムになっている。
  録音も、Enzendoh解散直後の2002年4月に行われているし、曲もEnzendoh時代に書いていたものを殆ど持ち越しているため、アルバムの雰囲気とアレンジはEnzendohの2nd作、「In The Middle Of Nowhere」を踏襲した発展盤といった位置付けにあると思う。
  が、やはりこれはOve Wulffのアルバムだと認識をリスナーにさせてしまう点−Enzendohとの相違点も存在する。
  先に'発展盤'という表現を活用しているが、'相違点'が全て発展=成長=レヴェルアップしたポイントではない事だけは確かなのだ。

 ◆ヴォーカルに変化有り
 
  最初にこの「Tales Of The Scorpio」の1曲目『Happy As A Clown』を聴いた時、正直に感じたことは、
  「あれ、ヴォーカル変わったかな。」
  だった。
  率直な気持ちを書くと、Enzendohのヴォーカリストとは同姓同名の別人のアルバムか又はEnzendohのリードヴォーカルが実はOveではなく、他のメンバーだったのではないかとまで疑問を抱いてしまったのだ。
  その位「Tales Of The Scorpio」とEnzendohの2枚でのヴォーカルの唄い方が違って耳に入ってくるのだ。
  どの程度の差があるかというと、演奏に溶け込んでしまう位、Ove Wulffソロ名義の今作での唄い方は控え目になっている。Enzendoh時代には、強烈な腰とシャウトとヨーデルとコブシをブンブン振り回していたOveとは別人のような感覚すら覚えてしまうのだ。
  逆にEnzendoh時代の濃過ぎるオトコ臭いヴォーカルがトゥー・マッチと見なしていたリスナーには、楽器との兼ね合いからすると楽器の一部として調和している#1『Happy As A Clown』の発音すら聴き取りがやや困難な押さえ具合は、快適と転じる可能性も又あるのだけれども。

  #1以外の全てのナンバーでも、Enzendoh時代の名曲爆裂ロックナンバー、『The War』に匹敵するような野太いヴォーカルを聴く事は不可能になっている。
  #1程にヴォーカルが目立たないナンバー、つまりヴォーカルをトーンダウンさせている曲は、他には無い。とはいえ、声質が変わってしまったのではと想像を巡らす余地を十分以上与えてしまえる位にEnzendoh風の歌唱方法はなりを潜めている。
  まずヴォーカルの響き方という側面で、「Tales Of The Scorpio」は単純なEnzendohの次席に続いた作品ではないことが分かる。
  これをOveのヴォーカリストとしての安定や老成と捉えるか、はたまたパワーダウンと捉えるかは聴き手次第だと思うが。

 ◆カントリー度合い減少&ポップさそのまま&ロック度やや減少、でも

  #1のキャッチー且つハードドライヴな曲調は、Enzendohでバンドが謳っていた"Power Country"のパワーの部分を堅実に継承していることが明確に顕われている。
  Enzendohは、ハードドライヴなルーツ/パンクナンバーとかなりベタなカントリーロックの基本的ナンバーが混在し、その中に両方のフィーリングが融合してPower Country Rockと云うべき曲に成ったアーシーなナンバーが点在。
  発祥地ロック顔負けのAlt-Country Rockに集約されたアルバムになっていた。
  が、Ove Wulffのソロ作は、相対的に見て、カントリーロックの配合量が低下していると思う。
  #1『Happy As A Clown』では、米国ロードハウス・ロックのラフさが中心となっている剛力なロックチューン。本来の骨組み中の骨組みはカントリーにあると見えるが、ロックリズムの率直さによってカントリー的なカラーは表に浮上せずにいる。ただ、ルーツィな味わいを増やすのみに貢献している。
  こういったアレンジは、Enzendohのスピーディで工事現場の工作機械の如くに削岩力のあるロックナンバーから正しく移植されたものだ。

  無論、本家から隔絶した地でのオマージュ的アルバムに由来する、ベッタリなカントリー・ミュージックの模倣的ソングも存在はしている。
  バンジョーが陽気にかき鳴らされるフェスタ・ナンバーの#10『The Light In Your Eye』は完全に米国中部プレイリー地方特有のブルーグラスの性格を備えている。
  これまた、今時のアメリカのブルーグラスバンドでも中々演奏しないようなベタなリズムが却って微笑ましかったりするのだが、ブルーグラスにドップリと漬かるのではなく、ちゃんと北欧パンク的なロックリズムを加えてRed Dirt的なパンクナンバーの性格を加味しているのが独自性の発露と云えよう。
 
  #10程までカントリーに突っ込んだナンバーは珍しいが、良質なカントリーロック“風”のPop/Rockは数多く存在している。
  中盤の#5から#9まではとてもスムーズでウルトラが頭に付くPop/Rockチューンが連続するけれど、その中でも#7『Small Town Hearts』はレイドバックした余裕がミディアムアップなテンポの内側に感じられる、カントリーのフレイヴァーが芳醇なナンバーだ。
  マンドリンの繊細な弦とバタバタなドラム、クッキリとしたパーカッションの音が、どれも爽快なアンサンブルを彩る手助けをしている。
  このようなポップで懐かしいカントリー・ロックは現在の米国でも中々見られないように思える。
  徒にレイドバックとカントリー回帰だけを標榜して、ロックではなくカントリーミュージックに終始してしまっている新人の“自称”オルタナ・カントリーのミュージシャンが多い中、このロックミュージックとの親和性を重視したソングライティングは貴重だと思う。

 ◆全体的にカッチリとした纏まりと安定感が増えている

  #7の前のナンバーで、ハーモニカと12弦アクースティックギターの柔らかい音色にリードされ、物凄いポップに進行する#6『A Train Rolling Home』も、西海岸ポップを北極圏へ移したようなカントリーロックをベースにしたナンバー。
  しかし、嫌味になる以内にカントリー・テイストは抑えられているので、サクサクしたギターの音とアップテンポなリズムが気持ち良いロックナンバーとして楽しめる。
  Enzendohとコマーシャルでメジャーコードを多用した取っ付き易いメロディは共通項がある。しかし、荒っぽさと粗さという動的なロックの側面が武器であったバンド時代と比べると、落ち着いて耳を傾けれる曲だ。

  スローダウンまでは行かずとも、Ove Wulffが遮二無二アクセルを開けるだけがロックではないと理解し始めた証拠を示しているのが、バラードナンバーだと考えている。
  米国での悲劇の日をジックリと歌い上げる#4『20010911』。かなりマイナー調子の物悲しいバラード。米国人の視点から思いを込めたこの悲劇への鎮魂歌は多々あるが、外からの目線での追悼歌は珍しいかもしれない。
  ここまで、“溜め”の効いた重目のバラードは初めての試みだと記憶している。バンジョーとリズムセクションのリズムがピッタリと合っている箇所はえもいわず剥き出しの感情の吐露に思える。
  暗い事件を謳った#4とは色を変え、スライドギターを交えてジワジワとロッカバラードを持ち上げていく、#8『I Won’t Go』。
  軽快だがヴォーカルが少々曲から後落していた#6や#7と比較すると、かなり豊かな感情を込めてOveはこのバラードを綴っている。実に普通だが、その分心に即染みてくるカントリーロック風のバラードだ。

  また、筆者的には少々残念なのだが、上がり2曲が何れもスローナンバーとなっている。この事がOveがタテノリなカントリーロックやロックンロール以外にも目を向け出した証拠だと思う。
  #11『By The Mountain』は曲調が#4にとても良く似た重めの哀愁を含んだナンバー。
  #12『Just Because』はアクースティック弦が中心となった、切々とOveが生の声を聴かせてくれる曲。このヴォーカルを聴いていると、やはりEnzendohではかなりヒートアップしたヴォーカルを振り回していた事が判別出来る。基本の声はEnzendohの頃より結構低くなったが、声質はほぼ変化無しのようだ。
  しかし、やはり裏声やがなり声の熱いヴォーカルが聴きたいと思ったりする。バラード系では寧ろ味が出ているヴォーカル捌きだと感じるけれども。
  これらのバラード率が増加したため、Enzendohよりもロックンロールとしてはやや回転が遅くなっているアルバムだ。
  けれども、ロックンロールの質量と存在感では劣ることは無い。

 ◆やっぱりロックンロールが最高。でもヴォーカルが足りないか

  パンキッシュでヘヴィなロードハウスロックの#1がフェイドアウトし、そこから続く2曲のポップでファーストなナンバーが続く序盤の3重連。このパートがこのアルバムのハイライトの1つだ。
  思わず腰を浮かしてしまう、ジャンピーなPop/Rockな#2『Loaded』。マンドリンと6弦アクースティックギターがスカッとした青さを演出し、オルガンとペダルスティールが更に蒼穹の高みへと心を浮き上がらせる。
  全く、気持ちの良いチューンで、キャッチーさと速さのバランスではこのアルバム随一になる。スライドギターのバックアップも出番的には多くないけれど、効果的なソロを聴ける。当然演奏はOve。
  次いで12弦ギターとバンジョーが、米国南部カントリーとトラッドの香りをぶちまける#3『The Feeling Wont Let Go』。オルガンやスライドギター、そしてペダルスティールといった多彩な楽器が、かなりダートでザクザクとしたサウンドをプロデュースしている。
  ポップさの匙加減では、Oveにしてはやや大人しいダートな音をメインに据えているので、瞠目させるレヴェルのポップ度ではない。けれども、南部サウンドのビターさにポップなベースが合わさって、荒いが心に入り込みやすいメロディを創り上げている。

  #5『I Wont Go』はミディアムポップなナンバーだが、カントリー的な素養が少ないという点で、#1に似ている。スライドギターとアクースティックギターがアーシーな大気を生み出し、包容力のあるメロディが全てを覆って、極上のルーツポップに仕立て上げている。
  マンドリンも土臭さの醸成に手を貸しているが、やはりハートウォーミングなメロディメイキングがこの曲の要だ。
  そして、#1と比肩するハードドライヴィンなロックチューンの#9『Where I’ve Been』。オープニングのガッツ溢れるギターのリフで一発轟沈なナンバーだ。ここで漸くOveのEnzendoh時代をシンクロさせるラフなヴォーカル・パフォーマンスの一端が垣間見れるのだが、今回のヴォーカル処理はやはり相当地味である。
  エフェクトを掛けたと思うくらいに、ヴォーカルが楽器を残して突出しないのだ。正直このくらいの本邦でドキャッチーなロックチューンでなら羽目を外してヨーデルや裏声で吠えて欲しいのだが。

 ◆これからも北欧の期待の中心になるメロディメイカー

  Enzendohが解散と知った時は相当ショックだった。2001年の個人的ベスト3にはいるハードなAlt-Country Rock且つポップな部分を外していないバンドだったからだ。
  しかし、Ove WulffはEnzendohあってのOveではなく、Oveあってのバンドであった事を本作の発表で見事に証明して見せている。
  1964年生まれで、34歳でEnzendohを結成するまでに数多くのバンドを結成しては分解させてきた人だから、再びバンドを組んで活動する日が来るかもしれないのは十分に予想範囲内だ。

  今回のアルバムはOveによってプロデュースされている。彼はマンドリン、バンジョーに各種ギター、そしてハーモニカと、結構なマルチプレイヤーを見せてくれる。
  当然ながら全てのトラックはOveの作品。Enzendoh時代にバンド用に創っていたナンバーが全てらしい。
  しかし、参加ミュージシャンにEnzendohのメンバーは見られない。ベーシストとドラマーは筆者も初めて見る名前となっている。
  が、ゲストとしてキーボードとペダルスティールを約半分の曲で担当しているTommy AndersonはEnzendohの1stアルバムからレコーディングエンジニアとして常にOveをサポートしてきた人だ。Oveが常に使用しているレコーディングスタジオのオーナー兼ミュージシャンという立場にいる模様だ。今回は更にギターリストとしても演奏に加わっている。

  Enzendohよりもカントリーフレイヴァーが減り、速くパンキッシュでポップなスピードサウンド中心から、総合的なルーツロックの担い手に上昇しつつある過程をその手で感じられる良作なので、是非北欧から取り寄せて聴いてみては如何だろうか。  (2003.7.15.)


  Far From Everything / No Justice (2003)

  Roots           ★★★★☆

  Pop          
★★★★

  Rock        
★★★☆

  Country Rock 
★★★  You Can Listen From Here


 ◆ひとつ星州、期待の新人バンド
 
  現在、テキサスを中心とした南部のカントリー系ロックのシーンで注目を浴びている新人が、今回紹介の場を設けたNo Justiceである。

  一概に南部のカントリーロックといっても、その種類は様々だ。
  ウェスタン・カントリーやブルーグラス、テックスメックスといった本来のカントリー・ミュージックの性格が強いものから、パンクロックやガレージロックの影響が顕著なAlt-Country Rock、カントリーをベースにしながらより普遍的なPop/Rockに歩み寄っている包括的なルーツロックサウンド、と様々である。
  呼び方はそれぞれ色々あるだろうが、現在はAmericana、Alt-Country、Contemporary Countryといったジャンルに殆どの"ロック"としてのカントリー系音楽は当て嵌める事が出来ると考えている。
  ルーツロックのファンとしての視点から眺めると、音楽間のボーダレスがどんどん進み、カントリーとカントリーロック、オルタナカントリーとルーツロックといった境目がかなり曖昧になってきているので、最早カントリーかカントリーロックかの差異は個々のリスナーに判断して貰うしかないのかもしれない。

  が、No Justiceは少なくともカントリーバンドではない。カントリーらしいポップなメロディラインを核にして、曲のあちこちにカントリーフレイヴァーを覗かせるアレンジを施している。
  しかし、カントリーのスカスカな雰囲気とロックン・ロールの重みを天秤に載せれば、ロック側に天秤が傾くサウンドだと思う。
  無論ハードパンクをベースにしたAlt-Countryや、より普遍的なルーツロック系の音楽と比較すれば、カントリー的なテイストは強い。
  No Justiceはオクラホマ州出身だが、同郷のグループでテキサスでは根強い人気を誇る、The Great Divideや遂にメジャーバンドに昇格したCross Canadian Ragweedの強力なプッシュを得てデビューを果たしている。
  テキサス州の愛称はLoan Star State=ひとつ星州だが、故郷のオクラホマよりもテキサスで人気が上昇中な所も先輩バンドに似ている。
  これらの2つのバンドが創造するサウンドと大本は同じような感じなので、No Justiceのカントリー度が拙い文面から判然としない場合は、これらの音楽性を基本にして考えると良いだろう。
  The Great Divideはロックとカントリー・ミュージックの融合を図った良質なAlt-Countryバンドとしてメジャーで2枚のアルバムを放っているし(現在再びマイナーに沈んでいるが)、Cross Canadian Ragweedはメジャー第一弾こそ商業カントリー色の強いカントリーロックのアルバムを出しているが、それ以前はかなりロックでラフなAlt-Country Rockの作風が強いバンドだ。
  両方のNo Justiceの先輩格といえるバンドに共通することは、カントリーを下地にした、カントリーの色合いが強い、然れどもロック系のカントリーロックを自分達の看板として確立している事だろう。

  全く同様な道を歩んでいるのが、No Justiceである。しかし、当然ながらCross Canadian RagweedやGreat Divideのコピーに終始しているバンドではない
  
 ◆No Justiceってどんなバンド
  
  先にも述べたように、No Justiceはかなりカントリー色の強いポップロックバンド。これが基本に当たる。
  海外のレヴューサイトでも、専らRed Dirt Music関連やテキサス州のカントリー音楽を扱うサイトで取り上げられることが殆ど。
  が、ベッタリなカントリーナンバーというのは殆ど見受けられない。これは非常に主観的な事柄なので、あるリスナーにはカントリーそのものと見なされる可能性は否定しないけれども。
  その点では、最近のJack IngramやDukes時代のSteve Earleとは似て非なる個性だと思われる。
  Jack Ingramや初期のEarleは、どちらかというとカントリーを土台にしてロックの建造物を上に建築したという感の強いサウンドだと考えている。
  しかし、No Justiceの根底にあるものはポップミュージックであり、ロックンロールである。それがたまたまバックグラウンドと音楽的なルーツ、そして何よりもオクラホマ州という地域性が作用した結果、カントリーをサウンドの合間に振り撒いたミュージックを成立させたのだと思う。
  言うまでも無いが、ポップやロックといった音楽の更に下層、根源に鎮座しているのはアメリカンルーツ・ミュージックであり、その中にはカントリー音楽も含まれる。
  こう書くとややこしくなるが、要するに自らのルーツ音楽をどのように最終的に表現するかが、カントリーとその他のルーツロックの境目になっているのだ。
  もっとも、No Justiceの場合、この「Far From Everything」がデビュー盤なため、本当のスタートからの音楽的変遷の記録が存在しない。ために、もっとカントリーが濃厚なサウンドから一歩を踏み出し、このカントリーロック的なサウンドを現在歩んでいるのか、それとも次第にカントリーへ移行しているのかは判別は付け難い。

  同年の2003年、このアルバムに1ヶ月少々先行する形でReckless Kellyが最新作「Under The Table & Above The Sun」というAlt-Country Rockの権化のようなレコードを発表している。
  かなりこれまでよりも一般受けしそうなトワンギィでハードポップなパワーサウンドを多数トラッキングしたバンドで一番良質なアルバムに仕上がっている。(近日中レヴュー予定:2003年7月現在)
  Reckless Kellyの場合は、より伝統的なカントリーサウンド、カントリー的なロックからキャリアを始め、2003年の段階でパンキッシュでロックな曲の割合が増えたアルバムへと到達している訳だ。
  No Justiceにはこの手のケースヒストリーが存在しない。
  しかし、良い意味でも悪い意味に於いても、新人バンドらしからぬルーツアルバムになっていることは明白なのだ。

 ◆非常に手堅いし、完成度も高い。しかし・・・・

  デビュー前に試聴が可能だった3サンプルのサウンドをストリーミングして、筆者はこのNo Justiceにかなりの期待を掛けていた。
  南部出身の新人の割には、徒にハードサザンに走るのでもなく、カントリーベッタリなグラス系のサウンドにも寄り掛からない本格的なルーツ・ポップロックのバンドと耳には響いてきたからだ。
  実際に、この出ビューアルバムが届いた時、Jason BolandやPat Greenのようなカントリーカントリーしたテキサスサウンドだったらどうしよう。という不安は見事に払底された。
  カントリーやウエスタン・スゥイングの軽過ぎるノリは全く見当たらない、実に安定感のあるカントリー・ロックでアルバムが纏まっていたからだ。

  が、先行サンプルの曲ほどには、ロックンロールを感じられない事は正直に残念だと思った。
  新人である若さを武器に、もっと遠慮呵責のない荒っぽい南部ルーツの歯応えを感じれるロックバンドではないだろうか、と予想していたからだ。
  が、蓋を開けてみると、かなり優等生的な南部ルーツ系のロックアルバムだったのだ。
  あちこちを探しても、アラが全く発見できない位、完成度が高水準に位置する。
  同じようなタイプの曲が連続するどころか、同系統のトーンを極力排除して、多彩な作風を印象付ける手法を意図して行っているとしか思えない多種多様なタイプのカントリー風ロックとポップ。
  ‘新人’をある種の免罪符として、意外性を追及したり、モダンな要素を取り入れたり、やんちゃをして荒っぽいサウンドを組み入れる、といった一定の時期しか出来ない“暴走”を全く実行していない。

  手堅く、手堅く、三四が無くて、五に手堅く・・・・・

  こういった標語を掲げて曲を書き、録音をしたのかなあ、と勝手な想像を巡らせてしまうくらいにベーシックで確実で悪い点が縁から零れて来ない。
  このアルバムが、これまでにハズレを出さずに堅実に水準以上のレヴェルでアルバムを数枚発表してきている中堅バンドの作品だった。
  これなら、流石に良いモノを出してくれるなあ、ハズレが無い事は素晴らしい。
  と賞賛するだけだろう。
  が、幾らメジャーの2バンドCross Canadian RagweedとThe Great Divideが後押しして、当然アドヴァイスも与えたからといって、ここまで型を崩さずしっかりしたアルバムが出来るものだろうか?
  どの曲も水準以上のカントリー系ロックやポップ、南部の香りのするロックやポップである。水準以上を満たした曲ばかりなのだ。

  しかし、まるでBilly Ray Cyrusのインディ版、もう少しロックの側にシフトしたJack Ingram、Radony Fosterの線を太くしたようなサウンドは、面白味に欠ける事も又事実なのだ。
  #10『Self-Expression』で泥臭くハードなスライドギターを一枚噛ませ、新世代のロックバンドを訴えるかの曲を提示しているが、これすら毎曲で色をコロコロと変える堅実路線の流れに呑まれ、大きなインパクトを発散することが不十分に終ってしまっている。
  又、曲名の通り、テックス・メックス的なボーダー・ソングの雰囲気が強い#12『Mexican Morning』も、ここまでカッチリと骨組みを通してしまったアルバムの最後に持ってこられては、寧ろ少々違和感を抱かせ、同時にマッタリとした終幕でアルバムを引かせるだけ。却ってアルバムを大人しく見せる働きしかしていないように思えてならない。
  ヴァイオリンやバンジョー、ペダルスティールといったケイジャン風のアレンジも新鮮とは見えず、どちらかというとアルバムの番外編。最後に遊んだ、的な捉え方をされそうだ。
  ここに至るまでもう少し新人らしい遊びや冒険を行っていれば、もっと違った見方で評価されそうだが、単なる息抜きソングとしか評価されなそうだ。

 ◆とはいえ・・・

  最初から、デビュー盤からこのヴェテランと見紛う程のレヴェルの曲を並べ、多数のゲストに支えられている副次効果もあるにせよ、ハイ・レヴェルでオーソドックスなアルバムをポンと出せるバンドはそうは無いだろう。
  反対の考え方をすれば、“若者”という持ち物を特権の御旗に仕立てた冒険や奇を衒う必要すら無い位、基礎が出来上がっている。その結果を忠実に今回はトレースしてアルバムを完成させた。
  以上のように解釈も出来る訳だ。

  筆者が、新人バンドらしい、しかもCross Canadian Ragweedが絶賛のグループという前知識をフィルターにして、もっとロックンロールが弾けたサウンドを期待していたので、「大人し過ぎる」、「意外性が足りない」、「新人なのに枯れ過ぎだ。」と前段で述べた堅実を掴んで離さない音楽性に不満を持っているだけである。
  より冷静に、客観的に見れば、
  無個性=基本が全て完璧に遂行できる実力の持ち主
  オーソドックス=土台が完全に固まっているのでこれから延びる可能性大
  と分析した方がより適切だろう。
  それにしても、バラードにしてもカントリー系のポップロックにしても、ルーツィなナンバーにしても、とても完成度が高い。商業カントリーのトップ40でブレイクする事のみならず、メジャーのトップ100でもすんなり受け入れられる素養は多分に含んだグループだ。

 ◆バラードも地味

  #3『The Toast』のピアノを交えた、アクースティックなバラードの美しさは、カントリーとかテキサスとかオクラホマといった特定のサウンドの垣根を越えた普遍性がある。
  慎重で大人しさという特徴があるバンドの代名詞の如く、派手さは無いが、ジックリと染みる哀歌だ。
  #6『Three Verses』はより繊細なタッチを出すため、スライドギターやアクースティックギターをより活用し、寂しげな音色を強調している。#3よりもエモーショナルなヴォーカルが、また違ったしっとりさを出している。
  #8『Turn To A Smile』はフィドルを最初から絡めてくる、かなりレイドバックを意識したスローナンバーで、ゆったりとした感じを上手に演出している。インタープレイでスローダンスを踊るフィドルが一番目立つが、密かに鳴らされるペダル・スティールやピアノのバックアップもこのバラードに切ない雰囲気を加味している。
  どのバラードも地味だが、極端にカントリー風なバラードが無く、レイドバックさとアクースティックさ、そしてアーシーな力がしっかりと補填されている噛み締めて好きになれる曲が揃っている。

 ◆カントリー・ロックの基本を踏襲

  #5『Feels Like Rain Time』はマイルドで滑らかなポップさが光る曲。フィドルとアクースティックギターの掛け合いで始まるリフから、軽快さがステップを踏み、何処か悲しげな空気を纏ったアップテンポなメロディは、1970年代のカントリーロックのムーヴメント、特に西海岸でのブレイクを思わせる。曲の所々で間歇的に叩かれるピアノは中期のEaglesを念頭に置いたアレンジではないだろうか。
  タイトル曲の#9『Far From Everything』もカントリー的なスゥインギングさが乗ったルーツナンバーだろう。
  オルガンとフィドルのバッキングで曲自体は南部のサウンドを代表するように厚目に仕上がっているが、乾いたカントリーロックな味付けが軽快さをも同居させている。
  #11『Shine A Light』もバンジョーやスティール弦がカントリー的な面を、オルガンやエレキギターがロック的な面をそれぞれ支える中庸的なカントリーロックナンバーだ。それなりにアップビートなのだが、弾けた泥臭さまでに至らず南部の地味さを中心に据えて完成しているのがNo Justiceらしい。
  後半ブリッジ部分で、女性ヴォーカリストとヴォーカルのSteve Riceが掛け合いを行う部分が最も印象深い。

 ◆サザンロック/ルーツロックバンドとしての側面

  #1『Twenty Four Days』、#2『Only You』、そして悲しげなバラードの#3を挟んだ#4『House Of Pain』と並んだ序盤が一番、No Justiceのロックバンドの貌(かお)が出ていると思う。
  Great DivideのドラマーであるJ.J.Lesterが何と、No Justiceのドラマーにクレジットされている。(ジャケットでは3人であり、オフィシャルの紹介も3人がメインのため、準メンバー扱いらしい。がコメントもインナーに記載されているため何とも。バンドを掛け持ちしているのは間違いないので、準メンバーになるだろう。)
  そのJ.J.の切れ味の良いドラミングで始まり、オルガンやギターがタップリとした余裕と馬力をサウンドアンサンブルに与えるオープニングトラックは、バンドの安定性を明確に表現しているナンバー。更に、極端にカントリーに特化していないロックバンドであることも謳っているように思える。
  #2は序盤2分近くをジックリと地味に地味に抑え、次第にギアを上げていき、コーラス部分で一気にターボをかけるような重いアーシーナンバー。特にコーラスからブリッジに掛けてのオルガンとスライドギターを筆頭にしたインストゥルメンタルのバトルが突出している。
  殊に速くないが、ロックンロールの重心が低く垂れ下がったナンバーだ。
  #4もスピーディでは決して無い。というよりもスローでダークな南部サウンドの特徴が良く出ている曲だ。くぐもったギターとハードなリズムギターが、ウネウネと絡んでズッシリしたリズムを刻んでいく。
  が、新人バンドの熱さではなく、地に足の付いた落ち着きが主に感じられ、徒にハードでダートを意識したナンバーとは似ても非なるナンバー。
  そしてスワンピーなスライドギターナンバーの#7『Devils Road』。Red Dirt Musicというジャンルの一端に連なるサウンドで、ペダルスティールとスライドギターのユニゾンは、南部のインディサウンドとルーツサウンドをNo Justiceがしっかりと取り込んで消化している事が理解出来るパートだ。
  Pop/Rockの基本だけではなく、南部サウンドのトラディショナルも確実に押さえているのだ。

 ◆さて、これから何処へ行く?

  Steve Rice (Lead.Vocal,Acoustic Guitars)、Tony Payne (Bass)、Jerry Payne (Guitars)
  の3人組に、前述のヴェテランドラマー、J.J.Lesterが参加したNo Justice。
  今回のデビューアルバムでは多くの無名ミュージシャンが他の楽器でサポートし、新人=シンプルな演奏、ではないしっかりしたプロダクションを行っている。
  地元よりもテキサスで人気が上昇しており、オクラホマ、テキサスを中心にしたツアーも順調にこなしている様子だ。
  さて、これからこのバンドは何処へ向かうのか、どう変化していくのか。
  1枚目にしてここまで基本に忠実な大人しいアルバムを創ったのは、次作へのステップと考えたい。
  音楽には正解も正義もないかもしれないが、是非次はNoと思わせない独自性のあるアルバムが欲しいところだ。
  (2003.7.20.)


  Lots And None At All / Druthers (2002)

  Roots          ★★

  Pop         
★★★★

  Rock      
★★☆

  Acoustic 
★★★  You Can Listen From Here


 ◆もしも、ピアノがなかったら

  恐らく、これだけピアノとオルガンが中心になった演奏の組み立てを行っていなかったら、この「Lots And None At All」というアルバムは印象に残らずに埋もれて行くアルバムだったに違いない。
  「たくさんで、そして全く何も無い。」直訳するとこのアルバムのタイトルは以上になるか。
  この訳に基いて解釈するなら、記録メディアが拡張すると共に、収録曲が増えるだけ増えているが、内容的には何も残らない捨て曲の割合が激増した大多数のアルバムに対しての、揶揄と穿った見方をすることが出来るかもしれない。
  が、筆者としての解釈は次の方が面白いかと思うのだ。
  「さあ、聴いてくれよ。一杯気に入ってくれるか、それとも全然駄目かどちらかになるね。」
  というニュアンスが込められていると見なせばどうだろう。
  誤解を招きそうな勝手な解釈だけれど、別に物凄く人を選ぶジャンルの音楽であることを表明しているのではない。そうではなくて、現在の売れ線でレコード会社が喜ぶ音とは異なっているから、分かってくれる人にしか分かって貰えないだろうなあ、とやや自嘲的な意思が読めたので、以上のように読んでみたのだ。

  とはいえ、このDruthersのデビューアルバムが全くの現在の売れ筋路線から逸脱していると思えば、そうでもなかったりする。
  メジャーシーンでも物凄い台頭は見せていないが、かなりやり方によってはチャートで成果を残せるようになってきたのが、アクースティックなサウンドを基調にしつつ、それなりのポップさを降り掛けたAcoustic Alternativeというジャンルに属する音楽だ。
  全く才能もないし、詰まらない音の焼き直ししか出来ないJohn Mayerが、2作目にして大ブレイクしたのは記憶に新しい。当然筆者にとっては悪夢の如き状況で、何をいわん、Counting CrowsがJohn Mayerのサポートバンド扱いでツアーを敢行などと伝え聞くと、如実に新世紀の始まりなのに末世を感じたりするものだ。

  閑話休題。
  基本的に、Druthersのサウンドはアクースティックベースではあるけれど、フォーク系の繊細なだけな音ではない。当然ながらアメリカン・ルーツのエッセンスがメインとなっている。
  適度にレイドバック風味を利かせ、それでいて弦楽器に依存する事無くピアノやB3ハモンドを中心にアクースティックでゆったりしたサウンドが展開している。
  アクースティックギターを柱にしたポップやロックバンドは結構存在している。眺める場所をメジャー・シーンに限定しなければ、単純に音がエレクトリックよりもアクースティック寄りになっているバンドやシンガーはかなり多いと思う。それはルーツ系、非ルーツ系を問わずにだ。
  しかし、Druthersの特徴は何といってもピアノとオルガンが途切れる事無く主役を張っているという点で、他の雑多なアクースティック・ベースのミュージシャン達とは一線を画すのだ。
  そして、鍵盤を活用しつつ、更にルーツィな音楽に顔を向けている姿勢が好ましい。
  アクースティック且つ土臭いとなると、カントリーやフォーク・ミュージックを中心としてその裾に広がる音楽は多いだろう。
  しかし、そこにピアノを積極的に加えているロックのバンドやシンガーは、まさに希少価値があると思う。
  そして、その要件を満たしているのがDruthersなのである。

  もしも、このピアノ・ベースなアレンジが無かったら、大した印象に映る事無く、「多くのそして何も感じない」CDの1枚として埋もれていったに違いない。

 ◆音楽環境に恵まれた、2兄弟によるバンド
  
  Druthersの核は、MikeとDaveのLongenecker兄弟である。ペンシルヴァニア州のルイスバーグという街で生まれ育ったこの兄弟は、幼少時から音楽に慣れ親しんでいた。
  そもそもLongenecker一家が大の音楽好きであり、普通の少年では経験し難いだろう音楽との触れ合いを経験しているとの事。家の「ミュージック・ルーム」はカントリーやフォークのLPが数え切れないくらいストックされており、これらのマテリアルから受けたDaveとMikeが受けた影響はかなりデビュー作の「Lots And None At All」に反映されている、と彼等は述べている。
  Johnny Cash、Gordon Lightfoot、Tom Paxton、そしてEverly brothersといったカントリーやフォークポップの大御所のマスターピースが常に子供の頃から部屋に流れていた環境で育った兄弟は、こういったミュージシャンへの愛着と敬意をアルバムに余すことなく詰め込んだとも語る。
  それにしても、物心付く前からこういったカントリー系の音楽をBGMにして育てば、やはり彼らが最も影響を受ける筈だった90年代型のオルタナティヴ/へヴィロックへの束縛が感じられないのも納得できる。

  音楽好きの両親に恵まれた福音は他にもある。Longenecker一家は毎夏、米国中西部で毎年のように開催されるブルーグラスのミュージックフェスタに2週間の休暇を使って見物に行くことを常としていた。
  そこで、兄弟は様々なミュージシャンを生で観れたのだ。
  Bill Monroe、Ralph Stanley、The Seldom SceneにAlison Kraussといったカントリー界の売れっ子のライヴステージを子供の頃から楽しめた訳だ。
  バンジョーの熱演やハイトーン・コーラスといった良質なカントリー音楽には欠かせないポイントを心に焼き付ける効果があったという。
  幼少時代を卒業してからは、カントリーやフォークのみならず広くロックやポップに親和し、著名なビックネームのBruce Springsteenから、 Coldplay、U2、David Grayといったモダンロック等に影響を受けた。
  この頃、中学・高校時代には母親直々の音楽レッスンを受けている。
  同時に音楽活動を素人学生バンドとして実行し始めているが、当時のレッスンが大いに役立ってくれたとDaveとMikeは述懐している。
  Longenecker兄弟は中学生に入った頃から独自にレコーディングに手を染めており、ホームビデオや市販のカセットテープに自分達の演奏した曲を録音することを繰り返していた。
  そんな彼らの目標は、「しっかりしたフォーマットでレコーディングを行いたい。」というものだった。

  アルバムをCDに吹き込むバンドになりたい。この野望は意外な道を経過して実現する事になった。
  Mikeは1990年代終わりにテネシー州立大学へ通うため、ナッシュヴィルを住処とするようになる。Mikeはミュージック・ビジネスのコースを専科に選んだのだが、彼の選択した講義に次の課題が出されたのだ。
  最上級生の課題として、曲を書きアルバムを作成する。
  これは、少なくとも80年代や90年代中盤で絶対に出なかったカリキュラムに違いない。現在のようにPCがあれば、アルバムが作れてしまう時代のもたらした効果といえる。
  ここで、Mikeは兄のDaveを始めとして、
  Andy Gilstrap(Drums)、 Josh Buckingham(Keys/Organ)、Andrew Fry(Bass)
  という音楽仲間を集めて「Lots And None At All」の作成に取り掛かることになった。

  そう、Druthersのデビュー作は、ソングライターの大学での云わば宿題を契機に生まれたという、ちょっとユニークな誕生をしているバンドなのである。

 ◆2兄弟による2枚のヴォーカルと、2人のソングライター

  しかし、兄弟バンドながら、DaveとMikeはそれぞれ単独で詩を書き作曲をし、各々が創り上げた曲のリードヴォーカルを受け持つ。
  以上のような完全分業体制で創作活動を実施するユニットである。
  この分業を1つに合体させてアルバムにする形式は、決して兄弟仲が悪いのではない。
  現在の兄弟のライフスタイルに起因する所が大きいと想像している。

  Mikeは2001年に大学を卒業し、そのままナッシュヴィルに残っている。色々な雑仕事をアルバイターのようにこなしつつ、昼間はキャンパスで演奏。そして夜はナッシュヴィルのクラブシーンで演奏と、駆け出しミュージシャンの典型のような生活をしている。
  対してDaveは出身地のペンシルヴァニア州に定住。結婚後に農場を買い、そこをリファームする傍ら副業として幾つかの経営に手を染めているとの事。
  スケジュールが空くと、Daveはナッシュヴィルまで飛んで行きレコーディングやライヴステージに参加するそうだ。
  つまり、現状では常はDave不在でDruthersがギグを敢行する事が多いのである。
  最初に本作を録音した時も同様の状況だったらしく、Daveはペンシルヴァニアからバンドに合流する形で参加を行ってきたそうだ。
  もっとも、Druthersとしてステージに立つ場合は極力Daveはフライトの都合をつけて参加するように努力しているそうだが。
  以上の如く、兄弟が別れて暮らしているため、分業化が進んだのだろう。

  それぞれの創作、リードヴォーカルは以下になる。

 ●Dave Longenecker
  #1『Falling Apart』
  #4『Letting Go Of Love』
  #7『Song For You』
  #9『Goin' Home』
  #11『11:15 Jam』
  #12『Smile』

 ●Mike Longenecker
  #2『Looking For A Friend』
  #3『The Call』
  #5『The Ride Home』
  #6『Fools Rush In』
  #8『Alone』
  #10『Collision Course』

  丁度、半々歌い分け、書き分けている。実に平等だ。
  しかし、楽器に限れば、かなり分量が異なっている。Daveはアクースティックリズムギターの他には一部ベースとシェイカーくらいしか演奏をしていない。
  対してMikeは、リズムエレキギターにリズムトリードのアクースティクギターを手始めに、ピアノ、オルガン、B3ハモンド、シンセサイザー、バンジョーにハーモニカまで何でもござれ。加えてアコーディオンやサックスまで器用に使い分けるマルチなミュージシャンだ。

  ヴォーカリストとしては流石に血を分けた兄弟だけあり、何処と無く似ている性質の持ち主だ。
  どちらもやや不器用さが見えるが、とても優しく等身大の親しみを感じられるヴォーカル。然れども特徴はしっかりと顕現しており、Daveの方が高く柔らかい少しファジーな声質の持ち主。
  Mikeは比較すると、少し太目の男らしい低音を活用するタイプのヴォーカリストである。
  物凄い両極端なヴォーカリストが登場すると迄は思わないが、単調に流れてしまう事は少なくとも、無い。

  兄弟が書く曲の差に関して述べれば、ぶっちゃけどちらも色々なタイプの曲を提供しているため特色について、明確に答えることが出来ない。両ライターともスローナンバーからルーツ的な側面が高いナンバー、ロックに属するナンバーとしっかり一色で塗りつぶされることの無い作業を成功させている。
  筆者としてもお気に入りはMikeの書いた曲もあるし、Dave創作の件にしても然りである。つまり、お互いが偏った作曲に特化することをせず、しっかりとアイディアを纏められる能力を有している証明にもなると考えて問題なさそうだ。

 ◆Daveの歌

  どちらかというと、DruthersではメインがMike、Daveはヘルプという活動を行っているように見える。が、ヴォーカリストしては筆者の好みの声はDave。
  適度に甘く、力みを感じさせない声質が、聴いてきて肩が凝らないからだ。

  まず、#1『Falling Apart』。Druthersのアルバムをしっかりと印象付ける位置に置かれ、またそのファンクションを期待されているナンバーだろう。
  そして実行力を遺憾なく発揮している。
  ア・カ・ペラで始まるオープニング。澄んだピアノがDaveのハイトーンなヴォーカルに絡まり、ゆるりと漂っていく。そしてBメロからのドラマティックなバラード展開。ポップのツボを刺激しまくるスローナンバーだ。
  ピアノがかなり目立つが、それを支えるオルガンの音色も忘れてはならない。ベースやアクースティックギターと一緒に効果的なバックアップを行っている。

  Daveの曲は前半に山場がある。#4『Letting Go Of Love』。
  Elton JohnやBilly Joelを懐かしく思い出させるような分厚い冒頭のコーラス。Druthersにしてはかなりロックンロールの馬力を感じる曲だ。ベースはオールディズ時代のR&Bロックンロールと南部あたりの土臭さが入り混じった風だろうか。アクースティックギターとハモンドB3の熱演が圧巻の1曲だ。

  #7『Song For You』はブルースハープとスティールギターの隙間の多いパフォーマンスのため、スワンピーな雰囲気が漂うアクースティック且つレイドバックしたナンバーだ。このあたりのルーツ感覚がDruthersの音楽的ルーツを連想させる。珍しくキーボードが目立たない曲でもある。

  #9『Goin' Home』は英国古典ロック的な熱いピアノがリードラインを走る。分類としてはバラードにな。かなり重苦しい感情に満ちたメロディを持つナンバーだ。音程を外し気味にして崩壊を表現しているかに見えるピアノが炸裂するリードインとリードアウトの強烈さに比べて、中盤はしずしずと進行するギャップが広い。

  #11『11:15 Jam』は、率直に言ってかなり危険な曲。最近のジャムバンドに多い黒人音楽の無作為な剽窃を示すかのように、このナンバーは完全なR&Bファンクロックだ。
  しかし、打ち込みもシークエンサーも使用せずに、ひたすらインプロヴィゼィションで体当たりしてくるDruthersの態度には好感を覚える。
  デルタブルース的な側面も有したインストゥルメンタル曲。鍵盤中心のバンドなら1曲は来るかなと思っていたオルガン系のファンクナンバーだが、なまじヴォーカルが入らない分、ジャムっている演奏が純粋に楽しめた。

  #12『Smile』も地味なバラードであり、ピアノが大活躍する。アクースティック音を表現するバンドとしては、ここまでキーボードを大胆に入れてくる所がレアに感じる。ギターのアクースティック弦でも代用は利くのだから。
  それ故に、筆者はこのバンドが好きなのだが。
  #9に似て、アーバンな雰囲気を纏ったバラードだ。

 ◆Mikeがバンドを引っ張り歌う

  ややソウルフルでおっさん臭いヴォーカルなMike。彼も多彩な曲を創り出せる若者だ。
 
  #2『Looking For A Friend』はDaveの懇親のOPトラックに引けを取らない良質なルーツバラードだ。儚げなピアノに、たゆたうオルガン。そしてMIkeとDaveのウエストコーストバンドのようなコーラスワーク。オルガンのソロが入る箇所は鍵盤好きには鳥肌ものだ。このナンバーではピアノよりもオルガンの存在感が高いと思う。

  #3『The Cal』も前後の曲に負けず劣らず、存在感を輝かしているミディアムなPop/Rockだ。
  ハーモニカの暖かい音色につられてしんみりと歌っているかのようなB3ハモンド。女性コーラスと見紛うほどのハイトーンなハーモナイズ。
  アクースティック弦をリズム楽器のように見せかけ、鍵盤類で曲のラインを牽引するというアレンジはかなり興味深く感じる。

  #5『The Ride Home』は繊細で決めの細かい感性−それがあるからこそMikeは良い曲を提供してくれるのだろうけどれも−がピアノとナチュラル弦で密やかに演奏されている。あまり注目を浴びないナンバーかもしれないが、デリケートな若者のバンドという顔も見えているDruthersには適切なチョイスだろう。
  少し残念なのは、#6『Fools Rush In』が中途まで前曲に類似したバラードであることか。後半にバンジョーのソロパートを追加したりして差別化を図ろうとしているのだが、そもそも曲が地味な弾き語り風だから、こう並べたのは成功にはならないかもしれない。

  #8『Alone』もスローな曲なら安心して任せられると筆者が認識しているこのバンドの良さを確実に表明している。
  ピアノの静かな演奏がほぼ単独で続くナンバーで、勿論曲のクライマックスでは最高に盛り上がる仕掛けがなされてはいる。
  MikeのテナーサックスがまるでKenny Gのように歌っている。このメロウさはアーバンやモダンポップのバンドとしても、Druthersを語れる余地があると知覚させてくれるだろうか・・・。

  全体に、DaveもMikeも後半に差し掛かると、スローでシンプルな曲を選ぶ傾向があるのだろうか。アルバム後半のナンバーは基本的に悲しげで閑かなナンバーが多い。
  その中で、Mikeの粘っこいヴォーカルが熱い歌唱を聴かせてくれる#10『Collision Course』は、かなり大きく揺れ動いてくれる曲なので、後半でのイメージは強力かもしれない。とはいえ、ファーストヴァースではひたすら大人しいラインを形成しているため、これまたアクースティック系のバラードに分類されそう。
  堅実で悪くないのだが、最後くらいもっとハメを外してロックンロールバンドとしての気概も見せて貰いたかった。

 ◆期待できる鍵盤バンド

  ルーツロック一筋、なバンドではないけれど、ピアノやオルガンを大胆に取り入れ他のアクースティックバンドやジャムバンドとは異なった創意工夫の見れるバンドなので、これからに期待したい。
  現在Mikeは次のアルバムを準備しているそうなので、近日中に新作が届く、かなあ・・・・なさそうだ・・・。
  兄弟による2枚ヴォーカル、そしてピアノや鍵盤類の活用をしっかりと行っているバンドなので、次の新作が非常に楽しみでもある。
  さて、何時出るかが判断付き難い。できれば2004年前くらいが嬉しいが。
  次のアルバムではどのような進化と進歩が見れるかとても楽しみだ。  (2003.8.2.)


  We Are Born In A Flame / Sam Roberts (2003)

  Roots         

  Pop        
★★★☆

  Rock     
★★★★

  Modern 
★★★  You Can Listen From Here


 ◆カナダ出身のSam Roberts、2枚目にしてメジャーへ

  Sam Robertという何の変哲も無い名前を付けた−日本で言えば鈴木さんや佐藤さんくらいに一般的に過ぎる−アーティストが、2枚目にして初のフルレングスアルバムで早くもメジャー昇格を果たしている。
  それが今回紹介するSam Robertsだ。
  2002年に1作目のミニアルバム「The Inhuman Condition」をインディ発表してすぐ翌年に、Universal Records直々の抜擢を以ってメジャーアーティストへとステップアップ。というスター街道に足を乗せているシンガーだ。
  が、珍しい事があるもので、Sam Robertsはモントリオールを拠点に活動しているカナダ人ミュージシャンなのだ。
  国境線を接しているとはいえ、米国アーティストではなくカナダの男性アーティストとしてはかなりレアな速攻ジャンプアップのように感じる。
  殊に、男性シンガーやグループに関しては、最近あまりカナダ産で大成功した存在はあまり見れないように感じるので、尚更珍しく思えるのかもしれない。
  ・・・女性シンガーに関しては化け物のように売れたり売れているのが続行中の人々がいるけれども、筆者的には全くどうでもよい存在なので、結論としてやっぱりどうでもいい。

  それは兎も角、期待の新人とみてよいのだろうか?という疑問に対しては、一般的にはどうか−この意味は市場的に売れるか否かという点−と考えている。
  紋切り型の90年代タイプなオルタナティヴ・ミュージックで成功のきっかけを掴んだシンガーではないからだ。
  では、どういったタイプの音楽にSam Robertsは当て嵌まるのだろう?
  最近メジャー界においては激減しつつある、かなり正統派なアメリカンロックのコアを抱えたシンガーであると筆者的には分析している。・・・・実際にそういった正統な流れを汲んだサウンドのプロヴァイダーがカナダ人という事実は、何とも現在の米国メジャーシーンを示唆しているように思えてならないが。
  とはいえ、カナダの方が米国よりも北米ルーツサウンドの基本に忠実なシンガーを輩出する事は、セールスの面からは何とも言い難い所ではあるが、頻度としてはそれほど僅少ではない。
    このあたりの境界線はかなり難しいのだが、オマージュの大本が異なった方向に流れてしまっている場合、古くからの路線を忠実にトレースする模倣側(この表現が適切でないならば、オマージュを発信する側とでもしよう。)の方がより基本的で良心的な創作をする場合が多々起こる。
  しかしながら、単に劣化コピーに終始してしまう事もあれば、なまじお手本の音楽シーンがすぐ隣の北緯47度線を越えた所にあるためか、安易な流行への迎合に甘んじてしまうことが殆どだろうとも思う。つまるところ、劣化米国音楽の大量生産に陥るという、最も最低なカナディアン・ロックの底辺現象になって実体化するものがこれにあたる。
    さて、Sam Robertsはどのような位置付けとして捉えるべきカナディアン・ミュージシャンなのだろうか。
  但し、大前提として今や2つの巨頭レコードレーベルの片割れに成り上がったUniversal RecordsがSamをサポートしていることだ。
  これである程度の音楽性は想像が可能だと思う。

 ◆ルーツロック? AOR? モダンロック? それともAAA?


  まず、バリバリのカントリーやルーツサウンドで勝負するタイプのミュージシャンではない。
  このことは、メジャーデビューを果たしていることである程度は予想できると思うが。
  しかし、単調に音がデカイだけで、且つノイジーであり、感情の赴くままをヘヴィさという免罪符で運用させるヘヴィロックやオルタナティヴのメインストリームとも異なっている。
  実に捉え所が難しい、普通のサウンドを演奏する人なのだ。
  極端にアメリカントラッド風味に染まる事無し。然れども、極端にオルタナティヴに走り過ぎるサウンドでもない。
  TrainやGin BlossomsのようにAAA(Adult Alternative American)と一般には呼ばれるジャンルが最も近いジャンルになるかもしれない。
  それと1990年代以降のロックバンドが何処かしら共通の下地として有しているモダンロックのスマートさを大きな割合で持ち合わせている。
  これらにPower Popと北米トラッドのエッセンスを均等に広く浅くばら撒いて、焼き上げるとSam Robertsのレコードが出来上がる。

  一昔前なら、ちょっとロックテイストが強いAORとかアダルト・ロックで切り分けられていたかもしれない音楽性だ。
  しかし、“大人も聴ける”ロックアルバムだが、物凄いアダルト・コンテンポラリーに特化しているのではない。やはりオルタナティヴ・ミュージックの影響をはっきりと感じる現代的なロックサウンドとアメリカン・トラッドのテイストが2つの軸になっている、モダンで少しルーツさを感じさせるアルバムだと思う。
  大英帝国連邦に属するカナダだが、殆どのミュージシャンは強力な影響を世界中に発信する合衆国に隣接しているためか、英国的なポップセンスよりも米国的ストレートなサウンドを好む傾向が強い。
  が、Sam Robertsのソングライティングには、Beatles的なポップセンスがかなり濃厚に漂っており、英国的な少しクールで捻りのあるラインが特徴になっていると考えている。勿論、十分にキャッチーであり、アメリカン・ミュージックの分かり易さも同時に包括している。
  この英国的なアーティスティックさと米国的な親しみ易さのフュージョンが、Samの音楽性の肝のひとつだろう。

  従って、厳密にはルーツシンガーとは呼べない。ルーツやトラッドの下地はあるにせよ、それを目一杯活用するという手法は選択しておらず、表層に出ているエレメントの多くはあくまでも現代的なAAAやモダンなサウンドだからだ。
  しかし、1980年代には殊更アメリカン・ルーツを標榜したり表面に掲げなくても、しっかりとその養分が味わえたPop/Rockが何処にでも存在していたのに、最近はこういった中庸的なミュージシャンがとんと減ってしまった事を改めて思い知った気分でもある。

 ◆派手さは無いが、堅実な13曲

 かなりRobertsには失礼かもしれないが、よくこのアルバムでメジャーと契約が交わせたなあ、と意外に感じる程派手さが無い。
 これが筆者の抱く全体のイメージだ。悪し様に言えば華が少なく『見える』アルバムかもしれない。
  誤解を招くといけないので付け加えておくけど、決して1曲1曲のクオリティが低い訳ではない。
  寧ろ、粗製濫造でただギターを硬く弾きまくり、男性テナーヴォーカルががなりたてるだけの似非ロックバンドが氾濫するメジャーシーンに登録されたシンガーとしては異常な程に丁寧で練り込んだ曲創りをしている。
  どの曲もシングルカット可能なくらいにポップでもある。しかしながら、どのラジオ局もシングルとして歓迎してくれそうだが、物凄いヒット性を秘めたトラックはどれか、という段になるとかなり選別に苦心しそうに思えるのだ。
  言い換えれば、それなりのナンバーが並んで平均点は高いけど、飛び抜けたトラックが無いのだ。言わば、TOP40ヒットになりそうな曲が多いけれど、TOP10入りしそうな曲がないかもしれない、このような感じか。
  尤も、筆者がヒットすると思ったナンバーがスマッシュヒットに留まることは古今を問わずかなり多いのであまりこの分析は当てにはなるまいが。
  故に、先刻“華が少なく見える”と表現した次第である。筆者的に華が欠けて見えてしまうのは、矢張りアメリカンルーツ的なアーシーさや不恰好ながらもタフで男臭いオールドタイムロックンロールの度合いが、少ないからだと考えているが。

  例えば、本アルバムの代表曲とでもいうべき、2002年に地元モントリオールでシングルとしてエアプレイを開始され、インディロックのチャートで大ヒットを記録した#3『Brother Down』。
  Nine Daysのヒットシングル『Absolutely (Story Of A Girl)』に何処と無く似た雰囲気を持ったスマートでリズムを強調したこのナンバーは、レイドバックとか北米ルーツ色といった要素は希薄だが、無個性なオルタナ・へヴィナンバーや氾濫するパンクポップのノリだけで引っ張り誤魔化すロックチューンとも異なる。
  何処かしらプログレッシヴな先進性とモダン・ポップの軽快なビートがやや暗目のアレンジに浮遊している。
  一聴で腹に響くタイプのナンバーではないけど、聴いている内に自然に馴染んでしまうタイプのビートロックだろう。
  Sam RobertsをUniversalに結びつける端緒を付けたシングルでもある。
  しかし、ヒット曲の常かもしれないが、名曲とはお世辞にも呼べないタイプだと思う。ヒット曲は名曲だけでなく、得体の知れないリピート性に依存することが多々起こるが、この#3もそちらのタイプだろう。
  筆者も前から知っていたのはこのナンバーだけだったこともあり、アルバム中では最も印象がある。ヒット曲だということを予め知っていたからそのフィルターが掛かってしまっている事は否めないが。

 ◆1枚目EPからのスライドナンバーは流石にレヴェルが高い

  本作「We Are Born In A Flame」にはデビュー作のEP「The Inhuman Condition」から#3以外にも2曲が引き続き持ち込まれている。
  それが、#2『Don't Walk Away Eileen』と#4『Where Have All The Good People Gone?』である。
    #2は#3に続いてシングルカットされ、カナダのロックチャートで大ヒットとなり、Sam Robertsの人気を確定させたナンバーだ。
  かなりパワフルなロックチューンで、何となくだがデビューから2枚目位までのOasisを連想させる現代性とポップ性、そしてベーシックなアメリカン・トラッドの味を感じる。積極的にピロピロと鳴るシンセサイザーを使用しているのがSamの特徴だろう。
  #4は、更にシングル化され今度はカナダのメジャーチャートでもヒットを記録したロックチューン。Beatlesの影響を確実に漂わせているかなり欧州的ルーツテイストを含んだ曲。ここでもシンセサイザーと現代的なシャープなギターがモダンテイストを尖らせる。その傍ら欧州的な包容力の大きい曲感が全体を覆っていて、何とも云えない英国風のロックチューンになっている。
  米国のヒットソングだけでなく英国のナンバーも同時に受け入れやすいカナダのメジャーシーンではヒットした事も当然といえるか。

 ◆新しいマテリアル−ミディアムナンバーでは良好なトラックが揃い踏み

  #1『Hard Road』はこの2ndフルレングスを代表する曲の一つだ。
  やや緩めのスピードをビートとして刻みながら、アメリカン・トラッドとモダンポップの両方が適度にミックスされたバランス感覚を余すところ無く表現している。ギターソロの入れ方やコーラスの取り入れ方はとても新人とは思えなくらいの安定感がある。
  ヒット性で云えばアルバムの中でも格段に軽快で親しみ易い、#6『Every Part Of Me』。キーボードを駆使しているが、それ程人工的に聴こえないのは曲の出来が良いからだろうか。Power Pop系に分類されるポップチューンだろうが、クセが無くコマーシャルな曲で、このあたりはアメリカのマーケットを視野に入れた結果かもしれない。 

 ◆意外に多いロックナンバー

  モダンとトラッドの中間層に位置するバンドやシンガーは、現代音楽の宿阿たるオルタナティヴやヘヴィロックとの兼ね合いから、へヴィな曲とルーツ系のナンバーが両極端に分かれてしまう。又は、両方を混ぜ合わせようとして結局灰色なオルタナナンバーに縮小してしまう。
  それとも、モダンテイストが出過ぎてアメリカンロックのアーシーな普遍性が削がれてしまう。といった失敗を犯す事が多い。

  どちらかというと、Samはモダンロックのアーティスティックさとアーティフィシャルな面が占める割合が多いタイプだ。しかし、ロックチューンに限って云えば結構骨太なアメリカンロックの基本を踏襲していると思う。安易にヘヴィロックに走らない上に、スロー系のジャム/アクースティックで勝負していないのも潔いと見れる。

  #2、#3、#4といったアルバム前半の良作に続き、よりストレートに勝負してくるロックチューンが後半には多い。
  かなりハードに展開する#7『Higher Learning』。ヴォーカルが演奏から半分以上外れているような音程をエキセントリックにずらした歌い方はパンクロックそのものだ。このあたりはガレージサウンド世代の大きな特徴かもしれないが、嫌味になるくらいラウドに仕上げていないので、抵抗無く流せるトラック。決して良質ではないけれど。
  #7がマイナーコードを多用し崩れた雰囲気を出しているなら、#9『On The Run』はよりクラシカルなR&Rを意識して創られたナンバーだろう。50〜60年代のプライマリなロックスタイルをそのままに、現代的オルタナ風味を少々加えた感があるけれど、これはそういった問題を云々する事もないパーティロックンロールだ。
  バタバタなドラムにリードされ、ヴォーカルを中心に押し出して踊りまくる#12『Dead End』。このロックチューンと続く#13『Paranoia』は大作に属する、1970年代っぽさのあるチューンだ。
  英国的な捩れたセンスを加えることが多いSamにしては相当直線勝負を行い、間奏ではブルースロックの古典的な変調を加えて、かなり黒っぽいノリを曲に付けている#12。
  前半のキャッチーでスピーディな展開からベッタリなブルースへと落下するパートは印象が良くも悪くも強い。
  対して#13はゆったりとしたピアノを交えたスローナンバーで始まり、次第にボルテージを上げ、テンポが速く、速く、速くなって行き、仕舞いには壮大なハードロックに移行していく。1970年代のプログレ・ハードバンドを思い出してしまう、以前はアルバムのラストに見ることがしばしばだった雄大なナンバーである。

  この尻2曲でのRobertsが見せた大作主義と産業ロック的な手法はとてもインパクトが強い。

  ◆間に混じる英国センス・・・ちょっと苦手だ・・・

  ベントなピアノのリフで始まる#5『Taj Mahal』。かなりエレクトリックな雰囲気の強いナンバーであり、それ以上に英国的なアートロックの感覚が顔を見せている。ホーンセクションやストリングス弦まで取り入れ、ミステリアスな小作品に終わらせない組み立てをしているのはユニーク。
  #8『Rarefiel』も気怠るい空気とミステリアスな雰囲気が交互に出現するモダンロックの権化というナンバー。方向性が定まらなくなった後期Ben Folds Fiveに通じる前衛的な感じがする。このあたりのナンバーには少々追従出来ない。
  メロトロンを駆使し、打ち込みっぽいドラムプログラミングが耳に入ってくる#10『No Sleep』も似た様なモダン・エレポップだ。
  このあたりがSam Robertsがメジャー契約可能となった現代的なセンスというべきなのか、それともレコード会社の意向なのか判断が付きかねる。
  しかし、この歪んだポップセンスは英国的なものが多分に含まれており、英国連邦国家たるカナダの独自性を表現したものかもしれない。

 ◆ラッキーボーイの成功までと今後

    Sam Robertsは4歳の時、ヴァイオリンで演奏されたカナダ国家“Oh Canada”に感動し、両親にヴァイオリンをねだったのが音楽との関わりの始まりだという。
  「その後、僕は20歳までヴァイオリンのレッスンを続けた。一人で部屋にいた時は常にヴァイオリンが僕の友人だったよ。」
  10歳からギターを弾くようになり、15歳から作曲を開始。大学生になると最初のバンドNorthstarを結成し、モントリオールのカレッジチャートでは著名な存在となる。
  この成功に気を良くしたSamはL.A.に移って本格的な活動を開始しようと目論む。デモを作成し、米国西海岸で配布を始めるが失敗に終わる。そして1998年にバンドは解散。
  Samはこれにめげず、カナダへと帰郷し曲を書き続ける。
  そして2001年に最初のCDとなる「The Inhuman Condition」を録音。ここから前述の『Brother Down』が地元で大ヒットし、レコード会社の目に留まるに至ったのは既に書いた。

  「メジャーレーベルと契約出来た幸運に舞い上がっては無いよ。こんな事は滅多に起こるものではないけどね。如何にして僕たちの音楽をラジオ局でエアプレイしてもらいプロモーションして貰えるかを考えているけど、それに長けてはいないよ。だから昨年来の幸運よりもスポットライトを浴びる良い方法は思い浮かべる事が出来ないなあ。」

  「これまでにたくさんのレーベルにデモを送ってきた。Sloanの所属するレーベルにも送ったさ。でも慇懃無礼で断れたよ。僕はこのお断りの手紙を壁に貼り付けて励みとしていたからね。」

  「レコードレーベルの主張する契約主を肯定的に扱え、という問題は、契約の中でも一番悪い事だね。でもその中から何かを最大限活用するようにしなくちゃならない。」
  
    と、望外の幸運に対して冷静に対処し、メジャーと契約する上での制約に関しても必要悪と認めつつも付き合いを継続する意思を見せるなど、新人離れした苦労人ならではのしたたかさを見てしまう。
  このアルバムではSamはドラム以外の楽器を殆ど一人で演奏しているが、ゲストとして加わったミュージシャンと現在はバンドを組んでいる。
  名義もアルバムこそSam Robertsだが、ツアーではSam Roberts Bandという5人組を名乗っている。
  個人としてよりもバンドとしての面を強調したい意向が見て取れる。

  少し現代音楽のギミックやエレクトリックの使い過ぎなきらいがあるが、かなり珍しいベーシックなシンガーソングライターがメジャーに現れた。
  これからどうなるか。まずは次のアルバムが勝負になるだろう。売り上げとクオリティの両面で。
  取り敢えずは期待したい。期待できる才能は感じれる。  (2003.8.8.)


  Under The Table 
    & Above The Sun / 
Reckless Kelly (2003)
  Roots             ★★★★☆

  Pop           
★★★★☆

  Rock        
★★★☆

  Alt-Country 
★★★☆  You Can Listen From Here


 ◆バンドの名前の由来は銀行強盗から

  Reckless Kellyという名前は知らなくても、Ned Kellyという男なら聞いたことがある。
  こんな人はいるだろうか。
  音楽関係に限定すれば、Rolling StonesのMick Jaguarが主演を努めた映画、「The Kelly Gang」のモデルとなった人物。
  無論、Ned Kellyをモデルにした同名の映画は有名・無名・プロ・アマを問わなければ、数多く作成されており、舞台を現代に移したモチーフ的な映画も複数存在するし、米国人好みのパロディ映画にすらなっている。「Reckless Kelly」というタイトルで配給された映画も当然ある。

  日本ではあまり馴染みが無いが、Ned Kellyはオーストラリア人の間では伝説のヒーローとして死後100年をとうに経過した現在でも人気の高い男だ。アウト・ローと彼を表現する日本の書物は多々あるが、実際は「無法者」とはかなり異なった人物像が見えてくる。Nedについて書物を漁ると。(当然、豪州人の英雄たる彼に判官贔屓が存在するという前提は踏まえておく必要があるだろうが。)
  所謂“義賊”として、「強きを挫き、弱きを助」は洋の東西を問わず民草に人気が受け継がれていくのは普遍の審理らしい。
  Ned Kellyは、銀行強盗団の首魁であり、銀行から奪った金品を私物化ぜずに、貧しい民衆に分け与え、とても紳士的な対応をし、無関係の者に暴力を働くどころか親切に面倒を見てやったという逸話や伝承が数多く残っている。
  実際、Ned Kelly強盗団−The Kelly Gangは2回の銀行強盗に成功しただけなのだが、その金を一般大衆にばら撒いた事のインパクトは大きかったのだろう。

  このKellyに対して、後に付いた通り名がReckless Kelly。
  彼については諸説紛々あり、如何にも開拓時代らしい法螺話が殆どで、真実を知ることは不可能に近い。
  少年時代から札付きのワルで、窃盗を繰り返し警官と常にイタチゴッコをしていた、と記す本もあれば、無実の罪で刑務所に入れられたため、そこから脱走する経緯の間にやむなく強盗化したと見なしている書類もあるのだ。
  確かなことは、1853年生まれで、主として政治犯の流刑地だった豪州大陸に生まれたKellyもアイルランド人の流刑囚だった父親を持っていた事。
  銀行強盗を複数回行い、その利分を全て貧しい人々に分け与えた事。
  そして、警官隊と銃撃戦の末、仲間の3人は射殺され、彼も逮捕。25歳の時に絞首刑に処されて一生を終えた事。
  臨終の言葉が、「Such Is Life」(人生とはこんなもんさ。)という有名な台詞になっている事。
  以上である。まあ、米国の西部開拓時代程に一般に知れ渡ってはいないが、豪州大陸にも無法時代と開拓時代が19世紀に勃興した訳で、その時代に生まれた民間のヒーローのひとり、それがNed KellyことReckless Kellyなのだ。

 ◆アウトローと音楽バンドのReckless Kelly

  さて、話がReckless Kellyの名前の由来に振れた事で、随分と脱線してしまった。
  今更確認するまでもないのだが、Reckless Kellyはそのバンド名を豪州の民間英雄であるNed Kellyの通り名、Reckless Kellyから採っている。一般的な認識は反骨児・アウトロー・正義ではないけれど、ヒーローという感じで、名前からしてアウトローっぽいバンドである。

  実際に、カントリー・ミュージックにはOutlaw Countryというジャンルが存在している。
  音楽上の区分けとしては、1960年代に商業的なベースを築いたナッシュヴィル周辺のポップミュージックに歩み寄ったカントリーのアンチテーゼ的なスピンアウトとして出現した、ハードコアなアングラ臭の漂うカントリー・ロックやカントリーをこう呼ぶ。
  1970年代の、トレンドたる(現在のトップ40カントリーも同様だけれども)ナッシュヴィル・カントリーに迎合せず、ロックやブルース、フォークといったよりトラディショナル且つロックンロールの自由なスタイルを追い求めるシンガー達の姿勢から表意を得て、Outlaw Countryと呼ばれた模様である。
  次のディケイドである1980年代になると、この姿勢はCow Punk、そしてProgressive Countryと細分化し呼び方を変えて行く。そして1980年代後半から、Alternative Countryの代名詞たるUncle Tupeloが登場し、商業チャート用のカントリーとインディ志向のカントリーであるAlt-Country Rockという名前分けが促進していくのだ・・・・。

  と、またも脱線してしまったが、本題はReckless Kellyの音楽性にある。
  カウボーイスタイルのルックス、そしてミュージシャンとしてはそこそこ若手に属するだろう20代後半から30代程度のバンドメンバー。
  特段、パンクロッカーやデスメタルのバンドのようにドロップアウトを気取っている連中ではない。もっとも音楽的に無法者を標榜するという手法は残されているけれども、そこまでアナーキーな歌詞を唄うバンドでもない。
  寧ろ、アルバム全体を通して見ると実にキャッチーで基本に忠実なカントリー風のロックサウンドが終始徹底して詰まっている。無法者どころか、優等生的なカントリー・ロックバンドと考えた方が無難だろう。
  このベーシックで何ら冒険をしていないReckless KellyのサウンドをAlt-Countryと呼ぶか、それともCountry Rockと分けるか。
  元々この両者には明確な区分はなく、1970年代の主に西海岸シーンから発したロックサウンドををCountry Rock、1990年代にネオ・カントリーとも呼ばれた現代のカントリー的なロックンロールをAlt-Countryと呼んでいる。要するに時代による呼称の変遷も有る訳だ。
  筆者的にはガレージロックやパンクロックの土台が強いサウンドがオルタナティヴなカントリーロックであるという見解を指示しているため、そのポイントでカントリーロックとオルタナ・カントリーを区分している。
  実際問題、ナッシュヴィルのカントリーシーンによく見られる、外部ライターを雇い売れ筋だけ歌って稼いでいる“歌い手”達にも劣らないくらいのコマーシャルなメロディがこの4作目には存在する。
  テキサスのカントリー・シーンやカントリー系のラジオでも好評を得ているし、極端にノイジーやパンキッシュな尖りや癖も無い。
  筆者としては、比重がよりロックンロール側に寄ったカントリーロック、または大人しいAlt-Countryと見なしているが、さてリスナーによっては単なる超絶なカントリーサウンドになるかもしれない。

  が、必要以上にグラスルーツやウエスタン・カントリーに突出するインディシーンの本来アウトロー的な立場に立つ筈の若手バンドが、極端を追い求める余りロックンロールやポップミュージックから遠くなってしまったカントリー系のアルバムを放出することが多い近年、この堅実過ぎてある意味退屈さまで感じるベーシックサウンドは、却って主流では数が減少しているように思える。
  いわば、無法者達の主流がPop/Rock離れに向かって突き進んでいる時代に、真っ直ぐなカントリーロックを届ける行為自体が、ある種のアナーキズムであり、アウトロー・スタンディングを表明するひとつの手法にも感じたりもする。
  バンドの名前を無法者の象徴から得たからといい、特段破滅的や反社会的なイデオマティックを掲げる必要は無いのだ。
  要するに、時代がどうあれ、自らの欲する音楽を演る。周りから退屈だとか普通過ぎるとか、ナッシュヴィル系のカントリーロックと批判のための批判を受けようが、我が道を行く事。
  これこそ、Reckless Kellyが掲げたアウトローの証明のように思えてくるのだ。
  普通のカントリーロックを選択するバンドが少なかろうが、多かろうが、足元を見据えて音楽を実践するバンドは土台が強靭である。
  この実例が、「Under The Table & Above The Sun」を聴くと良く理解出来るだろう。

 ◆Steve Earleが素直になったら・・・

  もしも、反逆児というよりもアウトローのイメージが非常に強い大御所であるSteve Earleがヒネクれることを止め、素直に彼の持ち味であるアメリカン・ルーツだけを表現すれば、Reckless Kellyの音楽性にとても近くなるのでは。
  こんな風に思ったりする。Steve Earleは逮捕と投獄劇を含め、テロリストの心境を詩にするといった完全な我が道を突き進む芯の太さ(体型も太いが)が尊敬すべき点だと考えているが、その素直でない面が音楽性にも出易く、単にアメリカンルーツに留まらないとう性癖がある。
  あちらこちらへと音楽的な浮気と実験を平気で行う人なので、とんでもない奇抜な曲がアルバムに加わる事が結構ある。
  その一筋縄で行かない所がEarleの魅力であるのも確かなのだが、メロディ的にも反主流的なアナーキズムを尊ぶ人でもあるため、ポップさの表現に素直でない曲もそれなりにあるのだ。

  反対に、Reckless Kellyの新作はこれまでのアルバムの路線から大きく逸脱する事は無い。つまり、退屈と批判を受けそうな危惧を覚える程に、奇抜な点も斬新な箇所も存在しない。
  無難を普通でオブラートに包み、堅実と石橋を叩いて渡るを掛け合わせると、「Under The Table & Above The Sun」が出来上がるという次第である。
  Reckless Kelly(以下、RK)はこれまでのスタジオ録音盤2枚、ライヴ盤1枚にしてもカントリーやカントリーロックの中心線からはみ出す事はまず無かったが、今回の作品は特に中庸的な性格が大増量となっている。
  これは、過去のスタジオ作品2枚は、どちらかというとロックよりカントリーの面積が広いカントリー系のカントリーロックアルバム。この色合いが強かったため、カントリー・ミュージックに特有な土着色がアクとなっている節があった。
  殊に、RKはテキサス出身ではなく、寧ろ全く関係の無いオレゴン州を出自にしているバンドだが、活動の拠点と焦点を明らかにテキサスのシーンに置いているため、余所者の常かテキサス・ルーツやテキサス・カントリーに強い憧憬がある。
  このテキサス・ミュージックへの敬意とコンプレックスも多少なりともあるのだろうが、RKのサウンドには南部カントリーの雰囲気が強い。
  中西部のグラスルーツサウンドよりもサザン・サウンドに属するカントリー・ロックのバンドという位置付けをこれまで筆者は行っていた。
  
  が、今作はこれまでの中で最もロックンロールのカラーが浮き出ているアルバムだ。ために、よりポップオリエンティッドなカントリー音楽とホンキィでトワンギィなロックンロールのタフさがアルバムの親しみ易さをかなり底上げしている。
  このアルバムをルーツ・ロックンロールと呼ぶには、ややカントリー臭が強過ぎるとは正直思う。しかし、カントリーではないカントリーロックのバンドに本格的にステップアップした、と断言が出来るレヴェルにはなっていると感じている。Alt-CountryでもCountry Rockでもどちらでも呼び名は構わないが、単なるカントリーバンドという括りには出来なくなった。

 ◆Ray Kennedyのプロデュース

  何故にSteve Earleの名前を前項で挙げたかというと、音楽性が比較的カントリー時代のEarleに近いと感じた事もあるのだが、それよりもこのスタジオ盤3枚目にSteve EarleやEarleが見出したAlt-CountryロックバンドのV-Roysといった最近のアルバムのミキシングやマスタリング、そしてプロデューサーを手掛けているRay Kennedyが起用されているからだ。
  Rayはピアノから弦楽器、そしてドラムまで高いレヴェルで演奏出来るマルチプレイヤーで、1970年代から今日まで幅広い分野で活動している。HRの英国バンドであるBabysからFeetwood Mac、Luscinda Williamsといった大物のレコードにミュージシャンとして顔を見せている傍ら、自らもカントリー系の小規模ヒットとなったアルバムを数枚リリースしている。

  そのKennedyは、このアルバムのキーボードを全て弾き、他にもパーカッション類も引き受けて殆ど全てのトラックにゲストというより6人目のRKとして加わっている感が強い。
  ミュージシャンとして演奏に手を貸していないトラックは4分の1に当たる4曲のみだから、殆ど準メンバーとしてみて良いだろう。
  その他のミュージシャンは、主にボトルネックギター系のギタリストがゲストになっている。
  これはRKが5人組とはいえ、中心メンバーのひとり、Cody Braunがほぼ専属のマンドリン・プレイヤーであり、リードヴォーカリストのWilly Braunもリードラインを弾く事がないため、ペダルスティールやドブロギターを担当するメンバーがバンド内に存在しないからだ。
  後、有名な所では#12『May Peace Find You Tonight』でKim Richeyがハーモニーデュエット形式でゲストヴォーカルとして唯一外部から参入している。
  マンドリニストのCodyがフィドルを牧歌的に唄わせる、南部トラッド満載のカントリー・バラードである。アルバムのラストを締め括るのには打って付けだし、この手堅い曲が続くアルバムのフェードアウト部分を取り持つナンバーとしても適切だろう。
  アルバムの最後はバラード、こんなクラシカルなルールを採用する辺り、最後まで遊ばないバンドだ。

  また、演奏等には直接関わっていないが、長らくメジャーシーンで活躍しているコンテンポラリー・カントリーの人気シンガーであるRobert Earle Keenがアルバムのインナーにライナーノーツを寄稿している。
  カントリー界では殆どメジャーな存在に上昇してきた証拠と見るのが良い。レーベルもカントリーやカントリー率が強いカントリーロックの鉄板レーベルであるSugar Hill Recordsに移籍。初の中堅レーベルからの発売になった事も同様にバンドのステータスの上昇と見て差し支えなしだ。

 ◆どの曲も安心して聴けるレヴェル

  #1『Let’s Just Fall』のパワフルなルーツロックチューンから、#12『May Peace Find You Tonight』の心休まるバラードまで捨て曲は一切無し。
  全体的にテキサス・ルーツ及びテキサスカントリーの風味を強く残しつつも、かなりPop/Rockを意識したキャッチーなナンバーが殆どになり、ベタベタなカントリー、カントリーしたトラックは減少傾向にある。

  特に頭の#1と#2『Nobody's Girl』と続くパワフルで歯切れの良いルーツロックトラック連荘は最高に吸引力のあるスタートを演出している。
  元来、コテコテのティピカル・カントリーシンガー向けのヴォイスを持つWilly Barunだが、こういったロックナンバーを唄わせると、やはりカントリーロックに聞こえてしまうのはやや難かもしれない。
  出だし2曲はそれ程カントリーロックが濃厚ではないのだが、典型的な低音カントリーヴォーカルが節を付けるとカントリーとして耳に入ってくる傾向が矢張りある。
  トラッドのエッセンスが強い曲やカントリーロックしたカントリーナンバーを与えると非常に嵌るタイプの声なのだが。
  Montgomery Gentlyにしても同様なのだが、この手の数多い声質のシンガーがシーンに溢れているため、カントリーロックに相応しい声のヴォーカリストが没個性化する空気が蔓延している模様だ。
  RKのウィークポイントは、この実に曲風と作風にマッチしている優等生ヴォーカルの声にあるのかもしれない。

  しかし、フィドルやマンドリンの弦を浮き立たせた土臭くハートウォーミングな#3『Desolation Angels』や#6『Vancouver』でのミディアムでゆったりとした歩みの確実さに絡むWillyのヴォーカルは適役だ。Ray KennedyのピアノやB3オルガンも良い隠し味として曲をフォローしている。
  こういったアーシーで底力がジワジワと上がってくるようなタイプの曲が目立たないけれども、アルバムの平均レヴェルを持ち上げる効力を発しているのだろう。
  やや毛色が異なる#7『Willamina』のカントリートラッドとビートロックの融合的な曲でも、その安定感は抜群だ。演奏とヴォーカル共に全く隙も粗もない。
  即効性においては、中盤のフックのあるナンバー、#5『I Saw It Coming』や#11『You Don't Want Me Around』そして#1というロックラインナップの吸引力と即効性のあるポップロック群には敵わないだろうが。
  特に#5ではハーモニカ、スライドギターや12弦アクースティックギターといった楽器を総動員して、軽快なリズムを盛り立てている。
  #11はアルバム中最もハードに駆け上がるエレキギターが楽しく、これもまた南部ロックの馬力溢れる側面の発露だと思ったりする。

  テキサスや南部のダートでハードコアなカントリーの影響が如実に出ている、フィドル・ドライヴナンバーと呼びたい#8『Mersey Beat』や、かなりベタなカントリー風ポップの#9『Set Me Free』といった、前作までの基本であり、今作の骨組みのメインな一角を未だ占めているカントリーの影響が多分に伺える曲も勿論存在するが、他の曲と違和感無く並んでいる。特に#9の歌詞は単純ながら面白い。自由を求める現代の若者や子供の心境を唄ったものだろうか。

  Willyのヴォーカルは、ラップスティールが南部カントリーの伸びやかさを暢気にスローダンスする#4『Everybody』でも特段曲調に合わない訳でもなく、無骨ながら無難に纏めている。このあたりのバラードタイプで少しビハインドのあるバス系声質だけれども、全く歌に似合わない事はない。
  #10『Snowfall』でもハーモニーヴォーカルのCodyとの息もピッタリと合ったコーラスを聴かせてくれる。

 ◆こんな基本盤を出してしまうと

  次のアルバムが難しいかな、と心配になったりする。基本に立ち返る、何ら複雑なギミックを使用する事無く、そのままありのままをぶつけてアルバムにした。
  この「Under The Table & Above The Sun」はそんな1枚だと思う。
  これまでに足りなさ気だったロックンロールとしてのポップ感覚(カントリーではなくて)も十分に装備出来るようになったし、ロックとカントリー、そしてルーツのバランス感覚も抜群とは云えないまでも良く纏まって共存している。

  これでは次にオーソドックスなカントリーロックやAlt-Countryのマスターピースを持ってきても、このアルバムの焼き直しとしてか受け入れて貰えないかもしれない。
  無論、普通の良質なポップアルバムを拵える事が非常に難しいのは承知の上で筆者は発言しているのだが。
  こうなると、通算5作目は、リスナーが驚くくらいロックに特化したルーツアルバムにするか、または先祖返りしたようなアングラなカントリーの作品にでもしない限りインパクトが薄くなるやもしれない。
  筆者の願望が相当入った予想だが、当然次作はもっとロックンロールなアルバムを望みたい。
  Reckless Kellyが多大な影響を受けたというUncle TupeloやJayhawksのポップさは過不足無く満たしたのだから、今度は初期のTupeloに迫るくらいのロックとワイルドが突出したアルバムで意表を突いて貰いたいものだ。
  また、彼らにはその技量があると信じているから。  (2003.8.17.)

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