Songs From Stamford Hill / Wood (1999)

  Roots                      ★★

  Pop                     
★★★★★

  Rock                   
★★☆

  Acoustic&Adult.Contemporary 
★★★★★


  “杜からの音楽”−常にこのアルバムを聴くたびに、筆者はそのようなイメージを連想してしまう。
  「森」ではなく、「杜」である。
  彼らの織り成す音楽は、針葉樹の茂る森から流れてくるような類ではないだろう。背丈の高いがっしりとした直木が黒々と際限なく連なる、露西亜のタイガ(針葉樹林帯)や独逸のシュバルツバルト(黒い森)というような峻厳さも、厳寒に耐えて屹立する玄武岩の塔のような鋭さも、質感も、ある種の鋭利さも存在しない。
  とはいえ、熱帯雨林の果てしのない生命力を内包した薄気味の悪さも、鬱蒼とした植生も、何よりも熱帯に特有の暑苦しさや有り余る程のビートが存在しない。
  間違っても、アマゾンのジャングルから聴こえてくるエスニックなアップビートなリズムは感じることは無いだろう。
  このような、植物が所狭しと生い茂る森や、大木が地の果てまでも並んでいくような森からの音楽ではないのだ、このWoodというバンドが紡ぎ出す音は。
  元々、森は、一般に連想される木々の深い森は英語ではForestという意味がより適切だろう。どちらかというと、植生というか、森の構成要素の木に主眼を置いているようなWoodとは、やや解釈において、「森林地帯」を意味するより広範な大意を有するForestの方が合致しているだろうから。
  とはいえ、Woodの意味の一つでもある「林」とも違いそうである。「林」というのは古典音楽というか古代においては祭事音楽であった「囃子」に源を発すると言う少数意見もあるようだけれども、(そうなると、音楽という意味合いにおいては非常に似通ったニュアンスになるだろうけど。)実際には「人の手の加わった」ことを表すという説のほうが有力なようである。“はやし=生やし”ということである。「植林」「防風林」というように、人間の手が加わった木々の集合は「林」と名を冠されることが多いことからも、人の手が介在する部分が多い「森」すら字面では「林」になってしまうことさえある。よって、「林」では現代的な人工サウンドを自慰的に撒き散らすオルタナティヴなイメージが先行してしまいそうだ。
  更に、「林」ではその疎ら過ぎる木の密度がスカスカ過ぎて、スロコアやサッドコアのような奥行のない小手先の芸術を追求する擬態をしたようなサウンドを連想してしてしまうから、これまた筆者的に不可。
  かといって、針葉樹と対になる広葉樹からなる森から聴こえて来る音楽、というお定まりの対称法で表現と言うのも、どうも若干印象に違和感があるのだ。広葉樹のみからなる明るくて、すっきりした木々の情景は、あまりにも整然と過ぎていて、パワー・ポップのような単純さや、シンプルさを追求し過ぎた弾き語り的なフォーク音楽を思わせてしまうからだ。明るさや繊細さと言う共通事項は存在するにしても、何処となくしっくりこないのだ。
  やはりこういう明るさには、日本風に言えば侘び・寂びが感じられないのだ。ざっかけない言い方をすれば、パワー・ポップという単語には非常に聴き「易い」が、音楽性もとても安売り中な程「安く」、飽きの来る音楽と言う偏見まみれなヴィジョンが宿唖の如く浮かんでくるからだ。しかも広葉樹がさんさんと照る陽射しの下で綺麗に並んでいるのは、やはり森でなく林を連想させてしまうから、どうも心に残るほどの取っ掛かりに欠けるように感じてならない。まあ、これはあまりにも氾濫していてうんざりな、自称・他称共のPower Popに相当筆者が嫌気を催していることも、後押ししているのだが。・・・・勿論、数少ない本物のPower Popというのは存在するし、そういう音楽はルーツと同じく愛して止まないのだが。
  こうなると、最終的に残るのが、針葉樹と広葉樹の混在した植生の一群からの、そうWoodからの音楽という印象が、作者的には一番しっくりと来るのだ。
  厳密には両者の混在した群生は熱帯雨林から亜寒帯の森林にまで見ることができるのだが、この場合は温帯から比較的低緯度の地帯に見られるそれを指すと考えたい。
  そして森という程鬱蒼としていない「杜」をやはり思い浮かべてしまう。「杜」という単語に含有される意味は、「土」を盛る−つまり祭事・葬祭に関連した場所を指すと言う説が定説のようだ。“鎮守の杜”、“社の杜”というようにだ。
  また「社」:「杜」という象形の近似を比較すれば、どちらも「神」という漢字を根源としている(古来においては「皇」、
「漾廚里茲Δ防週C気譴討い燭世蹐Δ・砲海箸・・鬚任C襪里任呂覆い世蹐Δ・」
  しかしながら、このWoodの音楽、チャーチ・ミュージックや宗教曲、賛美歌の西洋系の音のように荘厳でも仰々しくも無いし、東洋の囃子や未開地方になおも形骸を残しているレリジャス・シャントのような民族的や土着的な感覚は全くない。
  筆者が「杜」と捉えたのは、神社の杜、というように住宅地を切り取るようにしてこんもりと茂る小さな木々の塊を頭に浮かべたからである。
  更に、時には祭りの舞台となり、平時は子供の遊び場となっていた「杜」。こういった平時には神域であることを感じさせなく気軽に踏み込めるのだが、実際に心の奥では「罰が当たる」という観念を常に懸念するような、奥行の深いというか得体の知れない顔も持つ、杜。
  また夏や秋の夜、遠くから流れてくる祭囃子を聴く時に、閃きのように胸に去来する甘酸っぱいような、寂しいような名状し難い懐かしさと郷愁。
  このような断片的な感情や記憶の重なりが、このWoodを“「杜」からの音楽”と呼ばせている訳である。であるからして、単語のニュアンスを追求すると神域も絡んでくるが、宗教的な概念での近寄りがたい深山の神事の地、といったような概念は全くの埒外と考えてもらいたい。
  
  「森」程の人を近寄らせない深さではなく、「林」のように整然と手を入れられたものでもなく、適度の親しみと何時でも踏み込んでいける、しかし心の奥底では「大事な尊い場所」という観念を包括するに至っているような、等身大の「杜」、こういう音楽だからこそ、Woodは「杜」としたいのである。
  ナチュラルで、肩肘の張らない、とはいえ完全にフォーク系の弾き語りになってしまわずにいる厚味のある音楽を提供してくれるバンド、それがWoodなのである。

  完全に胡散臭い語学と東西の宗教感覚、そして植生まで含めて、怪しさが倍増した上に、殆ど音楽と関係のない、観念的な筆者の心裏風景をつらつらと書いてしまった。
  ので、この辺で、このWoodというバンドについて、より現実的に、音楽や経歴について述べていこうと思う。

  このアルバムを何の情報も無く聴いて、Woodというバンドが大英帝国出身のグループと判別できる人はまず存在しないだろうと思う。そのくらい、ど真ん中、そのまんまのアメリカのサウンドを展開させているバンドである。
  反対に、このピントのずれたようなフォーカスの演出をされて、ジャケットに写っているドブロギターを見て、このアルバムがカントリーやカントリー・ロックの1枚である、と予想をする人の方が多いかもしれない。もっとも、ドブロギターが判別できるようなリスナーはWoodのことを既に知っている可能性も高いこともまた確かであるけれど。(笑)
  後にも挙げるつもりでいるけれども、Woodは全くと言って良い、そう断言できるが、カントリーの匂いは消臭剤で消してしまったかの如く、皆目ない音創りをしている。これを突き詰めていくと、ルーツ・ロックと呼べるかもやや怪しくなるようにも思えてくるので、ここでは簡潔に飛ばしておくが、アクースティックでルーツ楽器を盛り沢山に取り入れた、フォーク・ポップとでも分類するべきか。否、フォーキィではあるが、フォーク・ロックのようなライトさはやはり感じ取り難い。アクースティックなアリーナロック・・・・・アクースティックなアメリカン(Made In USAではないが)ポップロックと呼んだ方がより近いように思えるサウンドである。
  が、このWoodというグループは、バンドという表現よりも、13曲全てを単独で書き上げ、リードヴォーカルと、ギターそしてハーモニカを担当するJames Maddockというアーティストのワンマン・プロジェクトと考える方がより適当であるだろう。
  ジャケットに上半身で登場しているのが、件の男、James Maddockである。率直に述べると、何処となく、若い頃のSteve Winwoodに似ているような好青年振りを見せているが、かなり「キマッタ」アングルから撮られた写真であるか、または写真写りが良過ぎる−恐らく前者であるが−のだろう。実物はもっとおっさんくさい。(笑)
  まあ、ルックスは筆者的にどうでも良いので話を進めよう。
  大西洋に囲まれた島国、グレートブリテン島はイングランド。そのイングランドのど真ん中に位置する、レイサー州の州都レイサーでJamesは生を受けている。
  Jamesが始めに手にとって演奏を始めたのは、珍しいかなウクレレということである。♪「あ〜あ〜、嫌んなっちゃうな〜」てな歌を彼が歌う場面はちと想像がつかないが。(古ッ!!)
  Jamesは8歳の時から、この楽器を始める。祖父が軍楽隊で演奏していた楽器を譲り受けてのことらしい。父祖から音楽に関わる血筋を受け継いでいたのかもしれない。彼の父親は眼鏡の細工職人を生業としていたが、大のジャズ好きで、常に自宅ではエンドレスでジャズのレコードを流しまくり、週末はアマチュアジャズバンドとして街頭プレイを繰り返していたそうだ。
  音楽に触れる・理解がある、という条件においては、Maddock少年は申し分のない条件に置かれていた訳である。が、ジャズ以外のロック、特にJamesが愛して止まないようになるアメリカンロックに接するきっかけになったのは14歳の時に、ギターを習い始めてからである。
  「14再の時、僕はかなり真剣にギターを弾きたいと思い始めた。で、実際に習ってみたらことの他上手くプレイできたよ。そして僕は物凄いギターの先生と出会ったのさ。」
  ミュージシャンに限らず、人が音楽に接する時に「お薦め」を助言してくれる人物がいると、その人物の推奨音楽が真っ更な「新人」に影響を与えることは容易い。ことの是非は別として。Jamesにとって、この出会いは間違いなく彼の人生に多大な影響を及ぼしただろう。少なくともこのギター教師に、筆者としては感謝している。彼のアドヴァイス無くして、James Maddockがこのアルバムのような音楽性を持てたかは相当疑問であるからだ。
  「レッスンが終わるたびに、先生はこう言うんだ。『君はNeil Youngのこのレコードを聴くべきだ』ってね。当時、僕は市場の露店でアルバイトをしていたんだけれど、日当が出るや否や先生の言うレコードを買いに行ったものさ。」
  Jamesには好きなレコードを何とか買えるだけの資金的余裕とそのレコードを聴ける環境があった訳だ。どこぞの楽器屋のショウウィンドウにへばり付いてトランペットを食い入るように見ていた黒人トランペッターとはかなり状況が違うようだ。
  「で、次の週に先生は、『じゃあ、Ry Cooderを聴いてごらん』とまた言うのさ。・・・・そして次はEagles、Jackson Browne、というように西海岸音楽のかなりの種類を紹介されて聴いた。」
  と彼は西海岸ロックがインプリンティングされているようである。確かにこの優しさと清涼感をルーツ楽器を使用しても過不足なく表現可能な才能の下地には、間違いなくウエスト・コースト音楽がバックグラウンドにあるだろう。
  「そして僕は『Born To Run』に出合った。完璧にハマってしまったよ。僕は今でもBruce Springsteenの大ファンだけれども、同じくらいに好きなのがThe Bandのセカンド・アルバム、そしてBob Dylan。Dylanは僕のヒーローさ。」
  このようにJamesはアメリカンロックの名盤をしっかりと聴きながらギターに親しんだことが良く分かる。やはりここにボケ茄子でカスなオルタナヘヴィネスやラウドロックを耳にして育ち、同じようなバンドを結成するクソ阿呆な連中とは基本で大きく水を空けている。良い音楽をしっかりと消化している音楽人はやはり良い曲を創るという見本のような人物なのだ。
  アメリカンロックの名盤を聴きながら、ギターをマスターしたJamesは20歳になるとともに、首都ロンドンへと移住する。無論、音楽活動を本格的に行うためである。彼はカヴァーバンドを結成し、数年間、ロンドン周辺のパブで演奏活動をする。概ね好評で迎えられたらしく、順調に活動を続けていくうちに、メンバーを集めてWoodという名前を名乗るようになる、これが1997年初めのことである。
  最初はCCRやBob Marleyのカヴァーを中心にしていたが、Jamesは並行して曲を書き出し、次第にオリジナルナンバーを混ぜるようになっていく。またデモ・テープも作成して売り込みをレコードレーベルにも開始するのである。
  が、1997年当時、大英帝国のメジャー・マーケットではOasisやBlurに代表される“ブリット・ポップ”なるジャンルだけが猛威を奮っていた。これらのバンドの亜流や改悪版、更にRadio Headの如くポップ音楽とは逆立ちしても認識できないような音楽が評論化筋に諸手を挙げて歓迎されていたのだ。
  当然の如く、どこのレーベルもWoodのアメリカンでナチュラルな音楽に見向きもしてくれなかった。勿論、Jamesはそれ程周りが見えていなかったのではないようで、自分の音楽はアメリカでこそ市場性がある、と考え、米国のレーベルへデモ・テープを送りつけていたようだ。
  どのような伝か幸運が働いたかは不明だが、Columbiaの上層部まで彼らのデモが届いて耳に入ったそうだ。1998年にはアメリカでもあまり聴くことの出来なくなった、クラッシックなアメリカンロックな音は、非常にこの大手メジャーにも新鮮だったようで、James Maddockはニューヨークまで招聘され、Columbiaのオフィスでオーディション代わりのギグを行うように指示された。
  「物凄く緊張、いや、怖かったね。これまで人生を賭けて、このステップまで上ろうと努力していたのに、突然ギターを抱えて、今からの20分で演ることに、これからがかかっているんだから。」
  とJamesは回想する。
  結果は、上々の出来であった。首尾良く契約とレコーディングまで漕ぎ着けたのだから。Jamesはフィラデルフィアのスタジオに入り、メンバーを集める。Wood結成時からかなりの人員がバンドに出入りしたようだが、メジャー契約を決めてからのメンバーは4名体制で固まった。Jamesの高校生時代からの友人であるBill Newsinger。彼はギターだけでなくマンドリン、バンジョー、マンドーラといったルーツ弦楽器を頻繁に持ち替えてレコーディングに加わっているようである。他にはベースのJames O’MalleyとドラムスのSteve Jackson。以上の4名が正式なWoodのメンバーとなる。
  が、レコーディングにはピアノやシンセサイザー、サポート鍵盤を含め、数名のキーボーディスト、ペダルスティールやアコーディオンにハーモニウム、パーカッションという、かなり多数のセッションミュージシャンがサウンドの肉付けを手伝い、さすがメジャー録音と言うべきしっかりとしたサウンドコラボレーションを完成させている。

  彼らの最初のデヴューは、アメリカでかなり人気らしい青春ドラマ「Dawson’s Creek」のサウンドトラック、
「Songs From Dawson’s Creek Vol.1」(1999年)に#1『Stay You』が収録されたことからである。#1『Stay You』はラジオシングルともなり、そこそこのオンエアをAC系のチャンネルで記録したそうである。
  また1999年の12月放送の第44話『Four To Tango』ではサウンドトラックには未収録の#4『Knock It On The Head』も挿入歌に使われている。
  このDawson’s Creekに挿入される音楽は殆どヒット曲が多いので、ここに使われただけでなく、サウンドトラックに歌が加えられたことは、新人バンドとして確固たる地位を認められたと考えて良いだろう。ちなみにこのサウンドトラックは全米チャート7位を記録するミリオンセラーになっている。
  そして同年の9月にデヴュー・フルアルバム「Songs From Stamford Hill」をリリース。合わせて全米ツアーを開始する。が、思ったほどのチャートアクションは皆無。セールスもメジャーデヴューした割には全く奮わない。
  やはり、本格的で良心的なロックヴォーカルアルバムが売れるというのは1999年の時点では不可能であったのだろう。オルタナティヴのテイストが欠片もないバンドが、チャートに押し入るにはあまりにも寒い時代であることを改めて思うことである。
  英国でも2001年3月、2年近く遅れで英国コロムビアから発売が決定し、それに合わせてWoodもアメリカから古巣の英国へ居を移してプロモーションとlライヴを開始する。実際に春から夏にかけて大物ロックシンガーの前座等を努めていたようだが、2001年後半から全く活動が聞こえなくなる。
  2001年9月にマネージメントサイドから冬にアメリカで公開予定の映画「Serendipity」に曲を提供する予定で、その他は全くスケジュール無しというステイトがあったきりなのだ。
  解散したのか、新しい曲を作っているのか、レコーディングしているのかも全く闇の向こう。が、活動的な行動をとれば、必ずニュースが伝わってくるのが常であることを考慮すると、どうも先行きはあまり明るくなさそうである。
  何でも良いから確定的な情報が欲しいと、半年くらい悶々としているていたらくである・・・・・・。

  最後に簡単だが、収録曲を思いつくままに感想を付けておく。全13曲と、かなりの曲数を収録しているが、全く中弛みのない名曲・佳曲が揃い踏みである。最後の曲#13『Ending』はトラッドの風味のあるインストゥルメンタル曲だが、残りはJamesのスィートで翳りも同時に存在するヴォーカルが十二分に煮込まれている。
  James Maddockが一番影響を受け、手本にしているアルバムがJackson Browneの「Late For The Sky」と
Neil Youngの「Harvest」であることが納得できるような、ミディアムからスローなでトロリと溶けそうな甘く、柔らかいナンバーが終始流れてくるアルバムである。
  まずは、Dawson’s Creekのサウンドトラックに前述のように収録され、デヴューシングルとなった#1『Stay You』はやはり出色の出来だ。ハーモニカやピアノ、ストリングスシンセを上品なしつこ過ぎないアレンジで配置して、しかも1980年代アリーナロック・産業ロックの質感のある曲調をアクースティック楽器と重ねながら表現しているところは、とても新人バンドの曲には思えないくらいの貫禄がある。甘さと苦さが均等に配分されたようなJamesのヴォーカルも説得力に満ち溢れ、これは名曲であろう、1990年代の私的には極小数の英国産のバラードである。
  #2『Straight Lines』はJackson Browneの初期を思わせるアーバン・フォークな調子のアクースティックな静かな曲であるが、マンドリン、バンジョー、ドブロギター、ペダルスティールというような弦楽器が何とも言えずノスタルジックであり、筆者は#1よりも気に入っている。秋の弱い陽射しを連想させるような繊細さがストレートに伝わってくるため、感動も非常にヴィヴィッドである。
  #3『Whole Lot To Think About』は、非常に西海岸のロックを思わせる、乾燥したメロディの行間にさり気ない湿った甘さを感じることのできるバラードである。これまた非常に、地味で目立たない曲であるけれども、ハーモニカ、ピアノという楽器のサポートを受けてとても甘酸っぱい切なさが静々と魂に伝わってくるような名曲である。特に後半のコーラス部分のヴィヴィッドに満ちたやや傾斜した物悲しさは最高に感動的である。
  Jamesが大好きというNeil Youngのような枯れた味わいと、甘い、これはEaglesやByrdsの雰囲気のある味が同居するメランコリックなミディアムナンバー、#4『Knock It On The Head』はもう一つのこのアルバムの代表曲というべき完成度の高さである。流石にドラマの挿入歌に使われているだけのことはある。#8『Could I Be』も同じような甘さと苦味があるキャッチーなミディアムナンバーであるが、コーラスでのフックの効かせ方は絶妙だ。
  Maddockのファルセット・ヴォイスがトロトロと溶けたチョコレートが器に満ちていくように注がれていく#5『I Only Came For You』の大甘なバラードはもう聴いているうちに、火で当てたチーズのようにフニャフニャになりそうなバラードだ。#7『You Said The Word』や#9『Our Time Has Come』も同じく、しんみりとしたバラードであり、ここまでスローでメロウで良いのかと何故か心配したくなるような美しさとアクースティックさがある。
  マンドリンやアコーディオンが南部のトラッドロックを想わせる、明るくもそこはかとなくウェットな#6『Let Me Fall』はややアップテンポで楽しい曲である。
  マンドリンやバンジョーのリフを効果的に使用しながら、リズミカルに弾んでいく、#10『You Make Me Feel Bad』はThe Bandのようなトラディショナル感覚とポップロックのストレートなメロディラインがお互いを補完するように混合した根の明るい土臭さが漂うナンバー。#6のようにサニーで元気なマンドリンの挿入が嬉しい。このようなサザン・アクースティック風の曲を聴くと、やはりこのバンドが英連邦の出自とは到底思えない。
  #11『Man On Fire』のやや気怠い展開に英国フォークの手触りと言うか、英国ポップ風の斜に構えたメロディを感じないこともないが、これはWoodがメイド・イン・イングランドのバンドと知っているための先入観からくるのだろう。
  それよりも#12『Never Ending』の透明感のあるギターの音色に導かれて、優しく流れていくメロディの方にBeatlesの影響や、ケルティック・トラッドの雰囲気が如実に感じられると思う。が、これもどう見てもアメリカのバンドがケルトを素材に組上げた歌と言う感覚のほうが際立っている。ケルトバンドの特有のアクの強さが、アメリカン・ポップによって希釈されるという、アメリカンロックの良い普遍性が滲み出ているからだ。
  そして自分の故郷と少年時代へのメッセージソング的な#12にへの対になるようなタイトルのインストナンバー#13『Ending』でこのアルバムは幕を閉じる。Never Endingという未来を向いた歌のアンサーソングが歌詞無しというのはまた何やら示唆的である。しかも明るいポルカの風味もあるトラッド・インストナンバーであるから。
  これからの前途がハッピー・エンドになるようにと、願いを込めて作曲したのかもしれない。

  アルバムタイトル「Songs From Stamford Hill」は倫敦(ロンドン)の街の地名。Jamesがこのアルバムに収録されている殆どの曲を書いた場所、Stamford Hillから取ったそうである。ネタが分かると非常に単純だが、英国からのアメリカンロックへの愛着を表したタイトルのように思えてならない。
  それにしても、こういった良質なルーツロックを超えたヴォーカルアルバムが、ポップロックアルバムが売れないと言うのは、全くのところシーンが異常である。90年代後半のメジャーは完全に腐ってしまった。良識のある音楽ファンはメジャーなんぞを追いかけるのをすぐに中止すべきだろう。
  筆者の言葉を疑うなら、是非、この「スタンフォードの丘からの歌」を聴くことをお薦めする。それでも、このアルバムが気に入らないというリスナーは、木星のガリレオ衛星にでも10年くらい駐在して、重水素でも採掘することを推奨しよう。少しは感性に磨きがかかるだろう。
  それにしても、時たま、メジャーでこのような良質なアルバムが出るのは不可思議でもある。殆ど売れる確率が低いのに、まだ良心的な部分がアメリカの音楽産業にあると信じてよいのだろうか、いや、やはり突然変異のリリースと考える方が妥当だろう。
  兎に角、この1枚では終わって欲しくないバンドである。再始動のニュースが待ち遠しい。  (2002.1.19.)


  Happy Nowhere / Dog’s Eye View (1995)

  Roots                   ★★☆

  Pop                   ★★★☆

  Rock               ★★★☆

  Alternative&Acoustic ★★★★
   

  ♪「With A Dog’s Eye View,It’s A World Full Of Hydrants.
    And Passing Feet You Never Get A Whole Scene」
   『地に這いつくばり、犬の目線で眺めてみると、この世は消火栓ばかり。通り過ぎる人々の
   足が引っ切り無しに続くだけ。』

  ♪「You Read 429 Book’s Got A Better Word,
    But You Wake Up Early And You Still Don’t Know What They Mean.」
   『“ためになること”について書かれた本を429冊読んだ。けれども朝早く目が醒めて振り返ると
    何にもまだ分かっていないことに気が付く。 』

  ♪「Yeah,Where I’m Standing In America And I’m Swimming In This Whirpool
    My Head’s Above,But You Know There’s Water In My Eyes.」
   『そう、僕はここアメリカという国に存在して、混沌というプールの中でもがいている。
    頭を混沌から突き出しても、目にはまだ混乱という水が入ってくる。止まらない冷たい涙のように。』
   
   ♪「It Took 23 Years To Get This Stupid,
     Asking When’ll I Get Wise.」
   『こんなに自分の頭が悪いことに気が付くのに23年懸かってしまった。そして“何時になったら
    賢くなれるのだろう”と自問してみる。』
  
  ♪「And It Still Feels A Little Like A Landscape.
    And It Still Sounds A Lot Like Time Passing By.」
   『やはり風景のようだ、そんな気持ちは。そして時の流れのように心に響く、そんな気持ちは。』

  ♪「As You Watch Through A Window
    Asking When.....Well I.....I Get Mine」♪ (註:筆者聴き取り。信頼性ゼロ。訂正意見歓迎。)
   『窓の外ををぼんやりと見つめ、“何時になったら僕が僕らしく生きることができるのだろう”と
    問い掛ける時の気持ちは、そういった2つに似ている・・・・。』

  以上、バンド名の「Dog’s Eye View」というキーワードが歌詞の中に織り込まれた#4『The Prince’s Favorit Son』の特にお気に入りである部分を聴き取りで書き、勝手和訳を付けてみた。
  単に好きだから、という理由でいきなりこの歌を冒頭に持ってきたのではない。このバンド「犬の目の視界」という命名の由来にもこの歌はかなり関係していると考えているからの所以である。
  以前、北米にて音楽雑誌のインタヴュー記事で次のような、バンドのリーダーであるPeter Stuartのコメントを見たので、記憶している範囲で意訳と個人的な脚色(というか文節に書かれていなかった前後のPeterの意見を踏まえてのことだが)を踏まえて記述してみる。
  「僕がシカゴで幾つかのインディバンドで演奏をしていた頃、当時住んでいたアパートのベースメント(地下室)の明り取りの窓から建物の前の通りが見えた。
  僕はある日、一日中、窓から通りの様子を見ていた。通り過ぎる人々の足、自動車の車輪や排気ガス、散歩に連れてこられる犬の身体。視線を少し下げただけで世界は全く違ったものに見えてくることが分かった。犬はこういう世界から人の世界を見ているんだなあ、と考えたりもしたよ。結局、自分の見る事象は少し角度を変えるだけで物凄く違ったものに映ることが理解できたような気がする。だから、何にしても思い上がって、ふんぞり返り、目線を上げっぱなしのように生きることは正しくないと考えた。
  常に犬の目のように、違った角度からも世界を注意深く観察して、謙虚な気持ちで生きていこうと決心したんだ。これがバンドの名前の由来なのさ。」

  ・・・・とまあ、もう5年位前のことなので、完全に覚えているわけではないから、間違いとか誤解があれば是非、ご指摘願いたい。と、それは兎も角として、
  「Dog’s Eye View」という面白いグループの名前に関して唄った#4の歌詞の意味合いが、このような事実を認識することによって、かなり理解できるのではないか、と考えた。実際に、筆者は2枚目の「Daisy」から入ったバンドであるので、1999年にこの歌を聴いて、なるほど、と初めて手をポンと打ったクチなので、この歌詞と説明を試みてみた。
  しかし、かなりシニカルというかアイロニカルというか、痛烈な詩であると思う。Peter Stuartという男の書く詩は往々にして意味深で、非常に解釈の余地が広いと思う。勿論、この筆者が一番好きな#4に限らず殆どの曲に当てはまる事柄である。
  が、哀しいかな、2ndアルバムの「Daisy」のようなメロディが月並み以下、まあ率直に言うと筆者が嫌悪してやまないオルタナティヴに染まってしまっていて、しかもロックンロールとしての胸に迫るような臨場感の欠片もないスロー・コアのような曲が大半なアルバムでは歌詞を聴く気にもならなかったが。
  まあ、当時は(1997年)はまだオルタナティヴをそこそこは聴けていたので、記憶の端には引っ掛かるアルバムとなっていた。が、それだけでは1999年にこの「Happy Nowhere」を(ある方の好意で安価で入手したが)聴こうとはしなかっただろう。
  個人的な事情で完全に蛇足であるけれども、1998年に当時駐在していたシカゴにDog’s Eye Viewがツアーで訪れた前後に、毎日聴いていたラジオでシングル曲の地味なバラード『Last Letter Home』がDJの趣味であろうが、何回もローテーションになったため、自然に耳にこびりついてしまったのだ。故にあまり印象に残らないはずの名前が記憶に残っていたのである。
  であるから、漫然と、然程期待せずにこの「Happy Nowhere」を初めて聴いた時、その2枚目との出来のあまりの違いに思わず居住まいを正してしまったほどだ。筆者にしては珍しく、駄目出しに近いアルバムを聴いてから、しかもその前のリリース・マテリアルで当たった、非常に稀有な例である。
  「Daisy」で期待していた音と、実際の音の落差に相当落胆したのとは非常に対照的であった。
  そう、このDog’s Eye Viewというバンドの経歴をもっと早くに知っていたら間違いなく、筆者は1枚目の本作から聴き始めたに違いない。正確には、このバンドの核であるPeter Stuartがこのバンドの核であることを知っていればということだが。
  実質彼のソロアクトに他のメンバーをくわえて、名前を「Dog’s Eye View」と銘打ったと知ったのが、2ndアルバムリリースのツアーの時であったため、この「Happy Nowhere」を聴き損なっていたのである。
  Peter Stuartという名前は、その音楽がどういうものか全然聴いたことがなかったけれども、1994年には何回か聞いていた。
  というのは、あの「August And Everything After」で大々的にデヴューしたカリフォルニアのアメリカンロックバンドCounting Crowsのフロントライナーを努めたソロシンガーというニュースを目にしていたからである。
  かなりCounting CrowsのリードヴォーカリストであるAdam DritzがPeter Stuartを気に入っているとも耳にしていたので、このシンガーの動向を追おうかな、と思いつつも仕事の忙しさ等にかまけ、彼の名前で全くアルバムが出る気配もなかったため、1997年の時点まで全くPeterを忘れたままにしていたのだ。
  まさか、Dog’s Eye ViewがPeterのバンドとは思わなかった。DaisyにAdamがヴォーカルとして参加していることに加え、ツアーにくるというのでアルバムを購入して彼の名前を発見した次第である。
  が、前述の如く、引っ掛かる程のアルバムでなかったため、情報集めも結構おざなりであった、このアルバムを聴くまではの話であるけれども。
  そういう次第で、聴いた順序やアルバムの評価を別として、Peter Stuartというシンガーについて経歴を追ってみることにする。
  このDog’s Eye Viewというバンドは、編成上4ピースとなっているが、先に少し触れたようにPeter Stuartのソロアクトをそのままバンド形態に移行したもので、完全にPeter Stuartのワンマンバンドという形をとっている。
  その証拠に2年後の1997年に2枚目の「Daisy」をリリースするが、その時にはこのアルバムでバンドメンバーであったプレイヤーは誰一人としてクレジットされていない。
  が、担当楽器を見て、実際に聴いてみると結構興味深いインストゥルメンタルを担当しているメンバーが多い。
  例えば、John Abbeyというミュージシャンは、アップライトとエレクトリックの両ベースを弾いているし、更にメキシカンウッドベースとも言うべきギタローン、そしてチェロまで抱えている。
  またGren Bloedowという人は、ドブロ、ラップスティール、バリトン、そして電気という各ギターをプレイ、とルーツ系の弦の殆どを担当している。
  ある程度名前の知れているミュージシャンは、ゲスト扱いでマンドリン全てとギターを一部受け持っているMarvin Etzioniくらいだろう。彼は80年代のルーツロックファンには懐かしいLone Justiceのマンドリニストであり、Counting CrowsやPeter CaseにTodd The Wet Sprocketsのアルバムにマンドリンで参加している渋いプレイヤーである。
  が、#11『Subject To Change』を除いて全ての曲を単独で書き上げ、リードもバックヴォーカルも受け持ち、メインパートのギターを殆ど弾いているのが、フロントマンのPeter Stuartである。
  このPeter Stuartという男は生年月日を明確に語ったことが無いので、正確な年齢は不明だが、2002年の段階では30歳はとうに超えているだろうと推測が可能である。彼の経歴をたどればであるけれども。

  Peter Stuartはニューヨーク州の生まれ。マンハッタンから東へと数十km大西洋よりの海に近い都市のグレン・ヘッドという街が故郷である。これといった特徴のない郊外都市であり、そこに暮らしていたPeterも13歳までは何の変哲もない平凡な一市民であったと回顧している。
  Peterの人生の転機となったのは13歳でギターを弾き始めたことである。2年後の15歳には既に作曲を開始していたそうだ。が、これといってバンドとして目立った活動は行っていなかったようである。
  彼が、音楽に打ち込み始めるのは、生まれ故郷から大学に通うため、シカゴへと移り住んでからのことである。
Peterは映画撮影を専科にするためにノースウエスト大学に進んだのであるが、映画関連の勉強をおざなりにして、ギターを弾き、曲を書き散らすという生活を送っていたらしい。
  そして大学を無事卒業しても、このままシカゴに残って音楽を仕事にしたいと決心を固め、ローカルバンドを結成しインディシーンで演奏を開始する。彼は当時のシカゴではMonsterとGravity Beaversという2つのバンドを結成し、MonsterではローカルなFMでシングルが少しばかりリストに加えられたそうだ。が、この2つのバンドを経験し、改めてPeterはソロ活動の方が性に合っていると感じ、1990年始めに故郷のニューヨーク州に舞い戻る。
  ニューヨークでは曲を書きつつローカルなコーヒハウスやバーで弾き語りをしていたそうだ、数年間。
  「この時に、僕のギグを見てくれた人たちの好反応に随分救われた。当時は相当悩んでいたしね。このままでいいのかって。だからこの時のアクースティックな一人弾き語りのスタイルが僕の基本になっていると思う。」
  と、足場を固めつつあったPeterだが、このままでいけば、彼は東海岸のインディアーティストとしてキャリアをマイナーに積んでいく音楽屋で時を過ごしていったかもしれない。が、転機は1994年に訪れる。
  Peterはアイリッシュ音楽系のThe Fat Lady Singsというバンドの前座として7ヶ月の全米ツアーに出ることになったのだ。客の入りはそれなりであったらしいが。
  ここで偶然にミシガン州で、当時1stアルバムが850万枚のセールスを記録して、全米ツアーを繰り返していた
Counting Crowsの前座の前座として大観衆の前でプレイする機会を得たのだ。この時、PeterはヴォーカルのAdam DritzとギターのDavid Brysonに自分の作成したデモテープを渡すことができ、これまでにない数の観客に自分のデモテープを販売することができたのだる。まあ、ライヴに足を運ぶ人数の桁が違うのでそれも当然と言えるが。
  で、その1ヵ月後に、Adamが彼の音楽を評価して、ニューヨークで一緒にライヴをやらないかという話を持ちかけてきた。当然の如く、Peterは二つ返事で駆けつけ、ライヴに参加する。が、その時のライヴは相当悲惨であったようだ。
  「オープニングがJeff Buckley。でメインがCounting Crows、その後に僕の出番だったんだけど、僕がセットを準備している間にCounting Crowsを堪能した客は皆帰ってしまって、数えるほどしか残らなかったんだ。」
  まあ、仕方ないだろう。
  「けれども、Adamは最後までちゃんと見てくれて、2週間後から東海岸を北上するツアーがあるから2週間ぐらい前座をやらないか、というオファーをくれたんだ。」
  Adam Dritzは自分が良いと感じたインディバンドをツアーに連れていくということを良くするが(97年はGigolo
Ants)、かなりPeter Stuartを気に入ったらしい。2ndアルバムや2001年発売のソロアルバムにもヴォーカルでゲスト参加している。
  これがPeterの飛躍の始まりであった。ノーギャラで2週間ということから始めた前座が、殊のほか聴衆の評判が良かったため、結局は半年に延長され、欧州まで同行する。更にTori Amosのフロントライナーとしても起用されるようになった。ツアーの合間を縫ってDavid Brysonのプロデュースで作成され、ライヴ会場で発売したデモテープは6000本以上売れたそうだ。
  そしてCounting Crowsとのツアーの最終日に、Columbiaのマネージャーから契約を持ちかけられたそうだ。
  取り敢えず、デモ音源を元に、ミュージシャンを集めてレコーディングをしつつ、バンド名をColumbiaとの話し合いで
「Dog’s Eye View」と決定した。これは前述のようにPeterの基本姿勢を冠したものであるが、真実はPeter
Stuartの名前では他のインディレーベルとの契約の関係でレコードを出すのが面倒だったらしい。
  兎も角、1980年代後半から地道に活動をして、いきなり本格的なレコードの第一号がメジャー・リリースというラッキーを掴んだ彼は、まだ幸運に恵まれていたようだ。1stシングルの#2『Everything Falls Apart』がModern Rock Tracksチャートでトップ5に入るヒットとなり、2枚目のラジオシングル#4『The Prince’s Favorit Son』もスマッシュヒットを記録。アルバムもそれなりの売上であったため、1年半のツアーを敢行。豪州や欧州、そして日本にもRon
Sexsmithの前座として立ち寄っている。
  ちなみに筆者はRonのあまりにもヌルイ音楽は全然好きでないので、このライヴの情報すら知らなかったりした。Ronの最新作はSteve Earleが手掛けてロックになっているのでいずれ中古でも購入して聴いてみようとは思うが。それにしてもRon Sexsmith程度のアーティストがカントリーロックの一番手のように持て囃される日本の市場の何と貧しいことよ。こんな弱ッちいアーティストよりも優しく素晴らしい音を出すアーティストはそれこそ星の数以上いるのに・・・・・。話題休閑。
  そして1997年にシアトルで2枚目のアルバム「Daisy」を録音。このアルバムは『Homecoming Parade』、『Last Letter Home』のそこそこのラジオヒットシングルを記録する。が、やはり1枚目ほどの評判は得られなかったようである。このレヴューを執筆にあたり、何回と無く聴き返してみたが、やはり凡作である。あまり引っ掛かりがない。
  約1年弱のツアーを敢行したが、前回ほどの歓迎振りではなく、ツアーも海外まで腕を伸ばされることなく終了している。ここでPeterは非公式にバンドを解散する。やはり煮詰まりというか、かなり苦悶の見える2枚目のアルバムの製作過程で不振に陥っていたのではないだろうか。推測の域を出ないけれども。
 Peterはツアーで一番気に入り移住したシアトルからLAへと居を移し、個人名義のアルバムの作成に入る。プロデューサーにOld 97’sやPeter Case、Scott Thomas等をに関わっているAndrew Williamsを迎えて、1999年にレコーディングを開始したようだ。
  が、Peter本人曰く、最初はColumbiaとの契約で作成していたが、自分の手でリリースしたいのでレコードの権利を返して貰うように交渉を始め、弁護士も交えて相当揉めたようである。結局2001年になって、自分の手に版権を取り戻してインディでのリリースに持ち込んだそうである。この辺りの詳しい経緯についてはよく分からないが、一方的にメジャーから契約破棄をされたようではなさそうである、Peter本人のコメントに従えば、であるが。
  で、この初セルフ名義のアルバム「Propeller」であるが、ライヴ会場かレーベル通販でしか入手は困難なようである。が、レーベルは只今海外発送を停止中なのだ。試聴した感じ、ロックな曲は皆無で2ndに近いアクースティック・オルタナティヴの匂いがプンプンするけれども、やはり聴いてから判断したいので、首を長くして発送再開を待っているという次第である。
  現在、Peter Stuartはソロでクラブサーキット中であるということだが、スタイルはアクースティックなメジャー以前の演奏に戻っているようである。

  ここが非常に微妙な点であると思うのだ。
  このDog’s Eye ViewにしてもPeterにしても、間違いなくアクースティックなロックというのが売りであり持ち味であることに、異論はない。が、やはりPeter Stuartの創る音楽は1990年代のグランジ・オルタナティヴを経験した世代の音楽の無機質な臭さがムンムンしている。
  2ndの「Daisy」のように、徒にオルタナティヴ的な中途半端にポップなメロディを入れ過ぎると、なまじアクースティックなアレンジが多いため、どうしてもアンキャッチーさとのっぺらぼうなメロディが目立つようになる。
  また、アクースティックだと評判の3rdインディアルバムのようにロックンロールから離れてしまうと、雑多に増殖しているジャムバンド系譜のスローなオルタナティヴという、何ら特筆すべき箇所のない音楽に埋もれてしまう危険性があると思う。この「Propeller」はまだ実際に通して聴いていないので、言明はできかねるけれども。
  このような筆者的には最低に嫌悪している要素をギリギリのところで留めているのが、この「Happy Nowhere」であるのだ。
  伝統的アメリカンロックのアーシーさをそこそこに感じることができ、ロックンロールとアクースティックが程よく交互に配置されたような曲順。多少オルタナティヴの傍若無人さというか血肉の通わないロボットのような冷血さが見え隠れしないこともないが、この程度なら十分に気にならずに聴くことが可能である。

  ウッドストックの廃屋を改造してスタジオにした家屋でレコーディングされたと言うこのアルバムは、インナーの注意書きによると殆どの曲は一発ライヴ撮りのようである。後はキッチンやリヴィングルーム、階段や地下室で演奏された音をダビングして作られたそうだ。
  確かに、殆ど凝ったアレンジも多彩な楽器も使用されていないアルバムだが、その分ロアなライヴ感覚が満載の、緊張感とヴィヴィッドに溢れたアルバムになっている。
  曲は全部で13曲であり、少々多過ぎるように思える。物凄くヴァライエティに富んだ曲が詰まっている訳でないために、少し冗長的な感があるのは否めない。後3曲くらい削って10曲前後でアップした方がきっちりとしたアルバムになったと思うのだが、如何だろうか。
  ということからも推測できると思うが、全ての曲が凄いというと、そうでもない。正直印象の薄い曲もあって、大名盤とは口が裂けても言いたくないし、言えない。が、所々にある名曲が全体を上手く纏めていて、聴くに従って染み込んでくるような流れと雰囲気を有しており、アルバム全体で聴くと十分に名盤だ。
  歌詞に関してはどの曲もかなりダークであったりシニカルであったりして、また東洋的な無常観すら伺え、これは是非とも耳を傾ける価値のある詩ばかりである、断言できる。何処となく屈折した、しかし悪くなりきれない繊細な10代後半から30代までの青年の内面を見ているような、自分自身の心をトレースしているような既視感さえも覚えてしまったりする。惜しむらくは全ての曲が歌詞に比して名曲になっていないことだろうか。

  その13曲は、極端に言えば、スローなアクースティックナンバーとスライドギターやルーツ楽器が暴れまわるロックンロールに二分されている。以下、気に入った曲について纏めてみる。
  まず、アクースティック・サイドでは出だしの#1『I Wish I Was Here』はかなり心を奪われる名曲だ。フォーキィなリフから導入され、静かに拡がる燎原の炎のように静々と盛り上がっていくが、どこまでもアクースティックな静謐さが余韻として残るような、閑かなバラードだ。詩も、まるで歌われる「僕」が死人か神様かのような実態のない、または妄想の中の人物のように唄い込まれる、相当に暗めの内容だが、実に深みがあって良い。
  #6『Haywire』のアクースティックで美しい弾き語り形式のバラードもなかなかにして染みるナンバーである。シングル曲#2と共に、外部のバックヴォーカリストを起用している曲である。泣くようなギターが次第にヴォーカルのコーラスと共に動的に転じていくのだが、やや歪んだギターが入ったり、メロディもヒネテいて、サイケディリックな調子も感じることができる。
  また、タイトルからして非常に社会性のあるソングかもしれないと想像を掻き立てられる#12『Bulletproof And Bleeding』もアクースティックで切々としたメロディとは比較にならないくらい、重く社会風刺に満ちた、暗めの希望すら感じられない詩である。ドブロギターとアクースティックギターの静謐な音色に載せて、このような歌が唄われるギャップというか、その訴えかけてくるメッセージ性が強烈に感じられる。
  #13『Shine』の物語性も寓話を聞かされているような錯覚に陥りそうになる。これまた自閉症とか、自信喪失、対人恐怖症と言った現在の若年層の問題をもじったような歌詞であるように思えるが、感情を込めるか込めずに突き放して唄うかという、丁度ギリギリの中間の感情で歌うようなStuartのヴォーカルがとても印象的である。これまたオルタナ的というかサイケ調子に展開していく、崩壊していくような悲しい曲だ。
  反対に、このアルバムで特徴的なルーツテイストを盛り込んだアップテンポのロックンロールはかなりインパクトが強い曲が多い。
  まずはヒットシングルになったのも当然と言うべき、ウルトラキャッチーな#2『Everything Falls Apart』。文句無しにロックでアクースティック。ゲストバックヴォーカルを加えた、質感のあるコーラス。気持ちの良いサクサクしたリズムに独特のPeterのハスキーなヴォーカルがとてもマッチしたナンバーである。歌の内容は、明るいビートに導かれたメロディとは対照的に重いというか、絶望的な気持ちが唄いこまれているようだが。「全てが崩壊してから、僕はそれを元に戻すことを始めるだろう。」「天気が悪くなることが当たり前のように、全てが虚無に還るのもまた当然のこと。」というようなコーラス。神すらも狂言回し的に登場させる、かなり斜に構えている歌詞なのだが。
  冒頭に挙げた#4『The Prince’s Favorit Son』に関しては、もう文句なしである。静かに殆どウッドベースとアカペラだけで始まる導入部からシャウト一発で、ドブロやスライドギターが泥臭くかき鳴らされるソウルフルなルーツロックナンバーに飛び上がっていくところが最高だ。しかもPeterのシャウトが伸び伸びと大地を踏みつけるように、すっ飛んでいく。間違いなく#2と並んで、このアルバムの代表曲だろう。
  ややラフでオルタナティヴの臭さもあるが、サザンロックのハードさと重さをポップに処理した#5『Cottonmouth』もパンチが効いている直球的なロックナンバーである。2ndには殆ど見られないタイプの曲が2曲も続く、この前半は後半よりもやはり印象度が強い。また、中間でいきなりスローに変調し、酔いどれブルースのような間を置いて、またもロックに動的展開を見せるようなダイナミックなところもエポックである。
  #8『Speed Of Silence』はかなりポップで軽快なアクースティック・チューンである。これまた謎めいたラヴ・ソング風の詩であるけれども、実際は無感動な現代人への警鐘のような感じもするのだ。ラスト・ヴァースの♪「The Wind Blows The Water But Nothing Underneath It Moves」という部分が非常に暗喩的な気がする。
  また#2や#4に匹敵するルーツ・ポップロックチューンの#10『What I Know Now』もヒット性の高いナンバーだ。これまた、偽善や宗教的な盲信を頭から否定するようなプラクティカルな観念が歌われた曲である。
  ♪「When I Find Myself In Times Of Trouble,I Usually Give Up,Nothihg To Win’d Nothing To Loose」
  というコーラスでは傷つくことを恐れ、何もしないことを唄っているが、このような感覚を詩にしているナイーヴさというか感性の先鋭かつ繊細さは凄いと思う。
  これ以外の曲は、特にスローナンバーはメロディ的に殆ど聴き流してしまっている。正直に述べると#1以外のスローナンバーはオルタナティヴやストレートでないスコアがやや苦手であるのだが。

  筆者的には、かなり際どいアルバムである。これ以上、オルタナティヴが強くなると、もうアルバムとして評価が難しくなるメロディである。が、そのギリギリの線上にいる危うさというか不安定さが、妖しい魅力となっていることも確かである。少々捨て曲と出来の良いナンバーの差が激しいが、十分に両者の収支ではプラスになるアルバムであると考えている。
  2001年の個人名義のアルバムはロックナンバーがないという噂だが、やはりPeter Stuartにはこのアルバムに刻まれているロックナンバーをこれからもプレイして欲しいと思う。それこそ、オルタナティヴのアクースティックシンガーはインディにも腐るほどいるのだから。  (2001.1.20)


  Takin’ It To The Street
             / The Doobie Brothers (1976)
  Blue-Eyed Soul           ★★★★

  Pop                
★★★☆

  Rock             
★★★☆

  Adult.Contemporary 
★★★★
   

  「The Doobie Brothersでどの曲が好き?」とか「Doobiesと言えば、どの曲?」
  という問いかけに対して、即座に答えるなら、やはり『China Grove』、『Take Me In Your Arms(Rock Me A Little While)』、『Listen To The Music』、『Long Train Runnin’』、『Rockin’Down The Highway』等の、一般に言われる“前期Doobies”からのナンバーが圧倒的に多い。筆者に限って言えばである。
  無論、リアルタイムで聴いていた訳ではないが。(と若さを虚しく主張する。)
  が、しかし、
 『What A Fool Believes』は完全に別格である。
もはやDoobie Brothers云々の曲を超越している。これは
1970年代を代表するナンバーである。

  であることを一応お断りしておく。ま、つまり『What A Fool Believes』というNo.1ヒットシングルはDoobiesの曲と言うよりも、Michael McDonaldとKenny Logginsが創ったロックスタンダードなのである。故に、この曲はThe Doobie
Brothersの曲ではあるけれども、Doobiesらしいという範疇からは飛び出ているのだ。
  よって、この最高にクールなナンバーを除くと、やはりMichael加入前の曲が、“これがDoobies”という印象と重なる場合が多い。
  しかし、これらのアメリカン・ロックンロールのヒット曲が散りばめられたアルバムで、物凄い聴けるアルバムがあるか、という問いかけに対しては、はっきり述べてしまえば頭を捻らずにはいられない。1971年のデヴューアルバムである「The Doobie Brothers」から1975年の「Stampead」までを目を点にして聴いてみても、ロックの名盤となるピースはかなり好意的にみても挙げるのは難しい。
  大学時代に、そこそこ洋楽を聴く友人達に共通した意見は、
  「Doobie Brothersはシングルだけ、つまりベスト1枚を買えば、取り敢えず事足りるバンドやね。」
  という、かなり失礼であるものが大半を占めていたように思う。
  筆者自身は、そこまで前期Doobiesを貶める意図はないけれども、やはり「Stampead」までは、ヒット曲と代表曲だけ聴いていれば、まあそこそこ満足かな、と確かに同意する部分もある。
  というか、単にMichael McDonald加入後の、所謂“後期Doobies”が好きなだけ、という身も蓋もない理由の贔屓が大きな嗜好の偏りになっているのだが。更に、筆者はキーボードとドラムが専門なのに、ルーツロック系のホーム・ページを堂々と開設するくらいな変人であるため、鍵盤弾きが存在するバンドを応援する傾向が強い。
  そういった偏りを持つことを前提としても、一枚のアルバムとしての完成度は明らかにこの「Takin’ It To The Street」から格段に上昇していると思う。ストレートで、西海岸の疾走感覚を英国のパブロックで割ったような名曲を時たま聴かせてくれる5枚のアルバムよりも、ロックンロールや土臭さにおいては無論レヴェルが落ちるし、即効性を持った分かり易さにおいてもややビハインドがあるだろう。
  しかし、特に6thの本作から最高傑作の8th「Minute By Minute」までの3作品の音楽性の幅広さと玄人受けしそうな控えめだが高度な演奏技巧、そしてバランスの良さは、比較にならないくらい全体としての締りを引き上げ、アルバムとして非常に聴きこめる要素を含有していると思う。
  更に特筆すべきは、一度聴いたら絶対に忘れないくらいの独特の声帯を有するMichael McDonaldのシンガーとしての魅力であろう。この鼻を摘んで、オブラートで包んだような甘いという書いていてどうにも表現のし難い、正体不明の吸引力を持つ、ソウルフルなヴォーカルはまさに不出生の声であると思う。好き嫌いの分かれる声の質であるとは確かに思うが、暑苦しいとか聴き難いという評価はされないシンガーであるとも思う。
  筆者も最初に聴いた時は、「何てヘンテコな声やろ」と即感じたものであるが、直ぐにMichaelのヴォーカルに引き込まれてしまい、二度と突き放せなくなってしまった。
  まさに、麻薬のように妖艶で反復性のあるヴォーカルであろう。
  この前のアルバムまでの主要ソングライターでありヴォーカリストであるTom Johnstonのヴォーカルが悪いと言うつもりはないが、歌唱法はあまりお世辞にも上手とは断言できる程ではないと思う。ソウルフルで豪快なところはある声質であるが、如何せん多彩な唄い方は出来ないヴォーカリストだろう。
  別に普通はそうであるヴォーカリストが大半なのであるから、仮の話としてMichaelがDoobiesに加入しなかったとしたら、比較対象がTom以上に個性のないPatrick Simmonsだけだったので、こうも下に置くことはなかっただろうが。
  まあ、Michael McDonaldという類稀なシンガーが加わってしまったので、これは仕方ないだろう。
  繰り返すが、偏見と嗜好が入っているが、TomとMichaelの実力差は明白である。これは昔から筆者の主張する持論であるのだが、
 Tomの歌はMichaelが唄いこなすことができるが、(実際
にマスターして歌っていた。)Michaelのリードをとった曲
をTomは歌うことができないやん!

 ということである。幅広く、魅惑的なヴォーカルを先天的に持っているというプライオリティはMcDonaldにはあるにしても、歌い方の技術が格段に違うので、もうこれは致し方ない。
 Tom Johnstonも再結成アルバムの「Cycles」くらいまでオヤヂになると、声に円熟味が多少加わり、以前よりはコクのある声にはなったが。
  とはいえ、Tom Johnstonのヴォーカルとて捨てたものではない。というか、
 毒にも薬にもならへんPatrick Simmonsの印象度が
全然ないヴォーカルに比べれば月とスッポンである。 

  しかも、Patが単独でペンを取った歌には殆ど特筆すべき曲がない。更に前期・後期と全てのDoobiesに在籍しつつ80年代後半の再結成時にMichael McDonaldの加入について、結構辛辣なコメントを出していたりする。
 おまいはコウモリさんかい!!いったいどっちの味方
やねん!!?

  と、ツッコミみを入れたくなるのは人情と言うものであろう。
  兎に角、McDonaldの極上の絹で頬を摩られているようにも錯覚するヴォーカルから、いきなりSimmonsの平々凡々なヴォーカルに変わるところで、筆者は常に脱力を感じてしまう。
  絶対に、リードヴォーカルはMichaelのみに担当させた方が、Michaelのヴォーカルが苦手なリスナーにとっては辛くなるのは当たり前だが、確実にもっとヴォーカルを堪能できるアルバムになっていた筈である。これ以降のアルバムは。
  Patがロックな曲を書いたので、DoobiesがAORバリバリに染まらなかったという功績がある、とする説もあるけれども、Michaelのヴォーカルの出番を徒に減らしてるこのギタリストはどうも気に食わない。ヴォーカルも1〜2曲であればまだ許容範囲であるのだが、殆どMcDonaldと等量のリードをこなすところが梅雨の空のように鬱陶しい。
  実際に、このアルバムから、解散する前の最後のアルバム「One Step Closer」を続けて聴くと、Michael 
McDonaldのカラーがどんどんと強くなっていく傾向が顕著に表れている。結局、Patrick SimmonsはTom 
Johnston主体のロックバンドでも、Michael McDonald主体のR&BやAORを基本とした音のバンドにも対応できたという好意的な解釈も成り立たないこともないけれど、所詮はどっちつかずにいるミュージシャンであると思う。
  1アルバムに1曲くらいいい曲を書くが、大抵は共作の場合が圧倒的に多い。
 ギターテクニックでも“スカンク”に勝てへんし、やっぱし
おまい、邪魔。(結論)

  嗚呼、全曲Michaelがリードヴォーカルを担当したアルバムが聴きたかった・・・・・。事実上脱退していたのに、殆どのアルバムでヴォーカルとしてちょびっと参加して、セコく自分がメンバーであることを主張していた、ヘタレPなTomはまだヴォーカリストとして良い人材であるので、特別に慈悲を与えるけれども。(笑)

  しかしながら、やはり、ルーツロックファンには後期のDoobie Bros.というかMichael McDonald加入以降、全く方向転換を始めたこの「Takin’ It To The Street」から後のアルバムはあまり評判は宜しくないようである。大方のルーツ系の掲示板でも「前期が好き」という回答が多い、質問を投げかけると。
  まあ、好みの問題であるから、この辺を論争するのは不毛な泥沼に陥る可能性が高いだろうから、敢えてしようとは思わない。が、確かにこれだけ方向性を転換するなら、敢えてDoobiesの名前を使用せずに、新バンドを名乗った方が良かったのでは、と考えないこともない。
  プロモーションの問題等、様々な要因があったのだろうが、音楽的にはもう別路線をこのアルバムから驀進(という表現が似合うほどの直線ロックでないけれども。)し始めるのだから、やはり名前を変更した方が適切であったと、最初の5枚とそれ以降の作品のギャップを聞き知ってからは、常に思うことである。
  このかなりドラマティックと言っても差し支えない交代劇については、有名であるため、ここで敢えて経緯を述べる必要もないだろう。が、やはり色々と、この方向性の転換−ルーラルな雰囲気の漂う直線的なロックバンドから、シティロックというジャンルに当てはまるジャズやR&Bのテイストを取り入れたブルー・アイド・ソウル系のアーバンバンドへの変革−については、水面下で相当いざこざが合った様である。
  1989年の再結成アルバム「Cycles」ではMichael派とTom派(と呼んで適切かは兎も角)のわだかまりは、時間が解決してくれたようであるけれども、1980年代にリリースされたアルバムは両派閥の意見の衝突があったため、Tom中心の曲を集めた「Best Of The Doobies」とMichaelの時代を網羅した「Best Of The Doobies Vol.2」と縦割りにしてリリースされたことは有名なエピソードである。
  しかしながら、Tomがツアーの疲れのため、リングアウトした後に新入りのMichaelにリーダーを奪われるくらいのバンドであったという考え方も可能だと思う。かなりシニカルであるけれども。
  Steely Dan時代のサポートミュージシャンとしての仕事振りが良かったということで、一足先にDoobies入りしていたJeff“Skunk”Baxterが推薦して、ツアーの合間に合流したMichaelが2週間以内で全ての曲の演奏とヴォーカルを完璧にマスターしてしまったという逸話は大方のロックファンなら周知のことだと思う。
  Michael McDonaldという天才的なヴォーカリストを招いた瞬間から、遅かれ早かれDoobiesの舵はMichaelの手に収められることは運命であったのだろう。が、あまりにMichaelのテイストが強く顕在化し過ぎると、「One Step
Closer」のようなAORに手を突っ込み過ぎたアルバムになってしまう。
  また、更にMichaelのソロ作品が次第に黒人の打ち込みR&Bに歩み寄っていく経過を80年代から90年代にかけて追いかけて来たリスナーならMichael McDonaldが時代と共にロックンロールから離れていったという事実が理解できると思う。
  その点、「Minute By Minute」までのアルバムはPatの存在以前に、McDonaldもロック寄りなブルー・アイド・ソウルをかなり聴かせてくれるのが大きい。特に、この「Takin’ It To The Street」は、Michaelが途中加入してのツアーを終えるや否や作成されたアルバムであるため、前期のロックと後期のブルーアイドソウルが微妙に未完成に混じり合った、雑多な−多彩とも表現してかまわない、アルバムとなっている。
  「Minute By Minute」で至高の完成度を見るポップ・ソウルとブルー・アイド・ソウルの究極の心地良さまでは到達していないけれども、ウエットなアーバン感覚と、西海岸のバンドであるドライな感性が危ういバランスで同居している作品である。これ以上纏まりがないと散漫なアルバムになるだろう。

  プロデューサーはおなじみのTed Templemanである。このサウンドの変革にも見事に対応を見せて、前期作品と比べてみても、プロデューサーとしての手腕は全く遜色ない。流石に1970年代のアメリカンロックを代表するプロデューサーの一人である。
  アルバムは邦題の『運命の轍』−原題の『Wheels Of Fortune』とは少々ニュアンスが違うようにも思えるが、面白い解釈である。陳腐であるけれども、この『幸運』がこのアルバムから動き始めたとこじつける人が多いようである。この幸運とは=成功である。確かに、これ以降のチャート的な成功とアルバムのセールスは遥かにTom中心の時代を凌駕する。これ以前のトップ10ヒットは『Long Train Runnin’』(第8位)と何故かNo.1ヒットとなった『Black Water』のみであり、トップ10アルバムもない。
  が、筆者はやはり、Michaelが加わり、運命の歯車がMichaelを中心に回り出したものと解釈している。あまり変わらないか・・・・。
  ところで、この曲は以前のDoobiesの豪快なロックテイストと、今後を想像させるスマートなアーバンフィーリーが絡まった歌であり、ヴォーカルがMichaelで無いことを除けばなかなかの曲である。
  これは#3『8th Avenue Streets』にも当てはまり、R&Bのリズムで前半を流し、グルーヴィなリズムで乗せていきつつ、後半はハードなギタープレイを聴かせるという二面性を持っている。またメンフィス・ホーンの陽性な吹奏はSteely Danに通じる要素が見えるし、コーラスワークはゴスペルを取り入れたノンジャンルな音楽への歩み寄りも伺えて面白い。が、これまたMcDonaldがヴォーカルを取った方が絶対にシャッフル感のあるソウル・ポップになりそうなのに勿体無い。
  アーバン・ジャズ風な#6『For Someone Special』も、絶対にMichaelの歌であろう。Patは結構ウエットな歌い方でスゥイング感を出しているけれども、やはりパンチが足りない。
  後の「Minute By Minute」のオープニングを飾る名曲『Here To Love You』のドラムリフを連想させるようなドラムリズムから、まさにカリヴィアンというか南米風の音楽が聴こえて来る#5『Rio』に至ってはワールド・ミュージックの走りのような印象すら受ける。ストリングス、ホーンセクション、Maria Muldaurのシャウト・ヴォーカルまで加え、ブラスセクションはビッグ・バンド風でもあり、ライトファンクな面も伺えるが、ヴォーカルがねえ・・・・・。Michaelが歌うべき。
  そして、曲としてはかなりハードドライヴィンでキャッチー。Michaelのピアノまでも加わって、「Stampead」に入っていたらきっとヒットしたに違いないロックナンバーの#8『Turn It Loose』には、何故か病気でリタイアを決意した筈のTom Johnstonが曲を単独で書き、ヴォーカルも担当している。これは数々のロックシングルヒットに比較しても格落ちしないナンバーなのだが、全体からは見事に浮いている。(笑)しかし、アルバムに華を添え、多彩さを演出していることも確かであるので、この1曲の挿入は成功だろう。が、この1曲でメンバー扱いしてもらっているTomは果報者だろう。
  Johnstonはこの後、「Livin' On the Fault Line」にも「Minute By Minute」にも少々参加するが、ソロ作
『Everything You’ve Heard It True』が大ハズレして、1989年までの再結成まで辛酸を舐めることになる。

  さて、後はMichaelが関わり歌う素晴らしいナンバーばかりである。
  Doobiesの代表曲、というよりMichael加入後のバンドを象徴する初の1曲となった#2『Takin’ It To The Street』はとても気持ちの良いR&Bロックであり、ソロ活動に入ってからのロックンロールを忘れたようなMichaelのスタイルをこの時点では全く想像させないロックチューンである。タイトなドラムに、Michaelの弾くシンセサイザーとアクースティック・ピアノ、そしてJeff独特の小技の効いたギター、更に西海岸バンドの面目を果たしたようなコーラスワーク。これらをリードするのがファンキーに伸びやかに歌うMichaelの喉である。
  後年、初メジャー・ソロ作「It That’s What It Takes」でも別ヴァージョンが聴ける#4『Losin’End』も、こちらはアナログシンセサイザーが浮遊感を演出するアップテンポなリズムナンバーである。ソロヴァージョンのバラードも捨て難いが、インタープレイでヴィオラも入れて、陽気なグルーヴ感覚満載の、フュージョンロック・ヴァージョンも最高である。
しかし、このシンセサイザーの使い方、90年代のポップバンドが演奏したら物凄く安っぽくなりそうだが、Doobiesが演ると何ともいえない安定感があるのが不思議である。
  そして、このアルバムからの2枚目のシングルになったトップ40ヒットの#7『It Keeps You Runnin’』はCarly Simon が先行カヴァーしてトップ40ヒットを逃したが、本家のヴァージョンがカヴァーを上回った例でもある。これはこのアルバムで一番Michaelの嗜好が反映されたナンバーであろう。これ以降聴くことのできる『You Belong To Me』に伝播していく気怠るさと、リズムボックスをユニークに使った複雑で眠たげなリズムは、所謂“McDonald節”の代表格の一角となっていくのだから。しかし、これは完全なAORナンバーである。こういう曲ばかりで固めれられるとちと困惑するが、1曲なら実に印象が深くて良い。
  最後の#9『Carry Me Away』もポップ・ファンクとでも言うべき、Michael McDonaldが主導権を握って書いたに違いない曲だ。Jeff Baxterの趣味も反映されているだろうことも、想像に難くない。ポップでスムーズなジャズフィーリングがソウルフルに流れていく展開は、これまたSteely Danを思わせてしまう。
  後半のクラッシック・ジャズのようなホーンの掛け合いは、まさにバンドが別の音楽にシフトしたことを、最後に知らせるような余韻を持たせているだろう。

  以上、Doobie後期4部作(ライヴ盤の「Farewell Tour」は除外して数えている。)の先陣を切った彼らの6枚目のアルバムについて語ってみた。
  しかし、このアルバムの前のツアーに途中からMichaelが加わって、新曲も少々披露していたらしいが、このアルバムを当時聴いて、何人のファンが失望し、何人のファンがぶっ飛んだだろうか、といつも想像してしまう。
  特に、『China Grove』や『Long Train Runnin’』を期待して針を落としたリスナーは石化したパターンが多いかもしれないと妄想すると、笑いがこみ上げてくる。
  このアルバムでDoobiesを見限った人もいれば、反対にファンになった人もいるだろう。
  どちらが良いかは主観の問題だろう。が、2年後のグラミーと全米チャートを席巻したのは、変革を果たしたThe
Doobie Brothersであったことは歴史であるのだ。  (2002.1.25.)


  Back To The Innocence / Jonathan Cain (1995)

   Adult.Contemporary      ★★★★★

   Pop           
  ★★★★

   Rock         
★★☆

   Industrial   
★☆

 
  2002年の1月に、Jonathan Cainは通算でソロ5作目となる「Namaste」というアルバムをリリースした。
  2001年に発売されたベストアルバム「Anthology」をオリジナル・ワークに含めれば6枚目となるだろう。しかし、物好きな筆者も思わず購入を躊躇ってしまうようなジャケットとタイトルである。
  ここを見て頂ければ、その躊躇いの理由が何となくお分かり頂けるとは思うが。
  どうやら、今回も「Antology」まで3連続で続いたインストゥルメンタル・アルバムのようである。しかも、3枚のNew Ageとカテゴリーするのが一番しっくりするだろうノン・ヴォーカルアルバムの中でも最大の駄作である「Body Language」の雰囲気に近いようなミステリアス&ワールドミュージック系のアルバムに違いない。
  と断言は出来ないが、このジャケットから1995年の作品「Piano With A View」や1998年の「For A Lifetime」のようなDavid Fosterとタメを張りそうな美しいピアノ・インストゥルメンタルのアルバムを想像はし難い。
  Jonathan Cainというピアニストは、本来ハードロックやアリーナロックだけをバックグラウンドに持つコンポーザーでない、ということは周知の事実であろうし、Cainの多才を確認する上では、ノンジャンル的なインストゥルメンタルのアルバムが何枚かあっても良いのだが。
  しかし、ヴォーカルアルバムが、今回紹介する「Back To The Innocence」だけというのは如何にも寂しい気がするのも確かである。Steve PerryやJohn Waiteといった類稀なるロック・ヴォーカリストとの共同作業を続けていたためか、Jonathan Cainのヴォーカリストとしての力量はこれまでにあまり取り沙汰されたことがない。
  Journeyの事実上のラストアルバム(1990年代の2枚は、特に「Arrival」はもはや筆者にとってはJourneyではないので除外。)である1986年の「Raised On Radio」のシングル曲『I’ll Be Allright Without You』で僅かにCainのソロ・ヴォーカルパート♪「You Don’t Know〜」が挿入されているが、際立ったくらいで(というにはあまりにも短いが。)他の曲やアルバムでは、彼のヴォーカル・ワークはバックヴォーカル以外では殆どない。
  しかし、1977年のJonathan Cain Band名義のリーダー作「Windy City Breakdown」以来のソロアルバムとなった本作「Back To The Innocence」において、Jonathan Cainのヴォーカルは全くメロディラインに負けないくらいの力量を見せている。
  不出生のヴォーカリスト、とまで持ち上げるほどの流麗かつソウルフルなヴォーカルではないのだが、平均点以上のヴォーカリストとしての仕事は果たしていると思う。Cainよりも全然駄目なヴォーカリストがリードヴォーカリストとして存在しているバンドはそれこそ数え切れないくらいだろう。
  Jonathan Cainの声質は、やや甘く、しつこ過ぎないくらいには質感が感じられるくらいの感情を込めたものであろう。まあ、直截的な表現方法を用いれば、普通のヴォーカリストというところだろうか。普通いう意味はネガティヴなものではなく、この場合誉め言葉である。ソウルフルさもハイトーンも、伸びやかさもどれもが平均的な、と言う意味で普通と述べただけであるから。
  節回しも、音程も実に安定していて、所謂「下手さ」は全く感じられないヴォーカル・パフォーマンスである。これまで殆どバックヴォーカルとして甘んじていたのが勿体無く感じられる程である。少なくとも、バンド解散後に、ソロアルバムをリリースするという定型化したギタリストが出すアルバムの、殆どが鑑賞に堪えないヴォーカルとは全く一線を引ける歌い方であり、喉である。
  このアルバムを聴くに付け、何故にJonathanがたった1枚のヴォーカルアルバムしか発表していないのか疑問に思えるくらいのクオリティの高さであることは太鼓判を押そう。

  さて、ここにアップしたジャケットであるが、日本と米国で発売された「Back To The Innocence」とはジャケットだけでなく内容も異なっている、欧州のみの発売である。1995年の早春に欧州で何とインディレーベルからのリリースとなったアルバムである。
  後にアメリカではインディのIntersound日本ではSonyからの発売となったヴァージョンとは曲順だけでなく、収録曲も大きく異なっているという、かなり稀なパターンである。
  収録曲ではJohn Waiteとの共同作である『Wish That I Was There With You』やJourneyの名盤「Frontiers」からのシングルとなって、惜しくも全米トップ10ヒットを逃したが、Journeyのメジャースコアのバラードとしては『Open Arms』と同格に代表曲となっている名作『Faithfully』のセルフ・カヴァーを含んでいる日本盤の方が粒が揃っていると思う。
  が、ジャケットとしての良さ、ざっかけない言い方をするなら、Cainの写真うつりが日本盤よりも欧州盤の方が良いのでこちらをアップ写真に選んだ。というか、米盤・日本盤のCainはとてもおっさん臭いのだ。(笑)実際におっさんという年齢であるけれども。(苦笑)
  このアルバムは欧州盤・日本盤とも廃盤になっているが、中古屋等でそれ程困難なく発見できると思うので、興味のある方は探してみると良いだろう。こちらのジャケットのほうがCainが若く見えると言う筆者の意見に賛意を表して貰えると信じている。無論、既に日本盤かアメリカ盤を持っている人ならこのような説明は不要かもしれないが。
  それにしても、これほど収録曲が違うと両方を揃えないと寝覚めが悪いので、仕方なく筆者は米盤も購入した。
  以下、欧州盤と日本盤・米盤の収録トラックを列記しておこう。
  ★は日本盤未収録のトラック。◆は欧州盤未収録のトラック。

   <欧州盤>
   1.Something Scared
   2.Full Circle
   3.Hometown Boys★
   4.Back To The Innocence
   5.Summer Of An Angry Son★
   6.What The Gypsy Said★
   7.Women Never Forget
   8.My Old Man
   9.The Great Divide★
   10.When The Spirit Comes
   11.Family Hand-Me-Downs★
   12.The Waitnig Years★
   13.Distant Shores
   14.Little River

   <日本盤・米盤>
   1.Wish That I Was There With You◆
   2.Waiting On The Wind◆
   3.Something Scared
   4.Full Circle
   5.Back To The Innocence
   6.Little River
   7.Faithfully◆
   8.Just The Thought Of Lovin’You◆
   9.Women Never Forget
   10.My Old Man
   11.Distant Shores
   12.When The Spirit Comes
   13.Baptism Day◆

  となっている。このうち、現在入手がより一層困難な欧州盤の収録トラックが2001年に発売された「Anthology」に幾曲かトラッキングされて聴けるようになったのは重畳である。
  ちなみに『Hometown Boys』、『The Waitnig Years』、『Summer Of An Angry Son』、『Family 
Hand-Me-Downs』の4曲が入っている。
  殆どの方が日本盤のみの購入であると想像するので、今回のレヴューはジャケットには準じずに、日本盤・米盤を聴いた感想に基づくことにするが、仮に欧州盤と「Anthology」を購入して聴けないのは#2『Waiting On The Wind』のみである。
  少々苦言になるのだが、折角日本盤が発売されたのだから、ボーナスの形で欧州盤収録の6曲を付加して欲しかった。どの曲も佳曲揃いでこのように収録、未収録の溝ができるのは頂けない。それを補完すべきベスト盤でも完全にカヴァーしきれないのは、これまた片手落ちな気がする。2枚の合計で11曲もの未収録のマテリアルがあるのだから、これだけでも1枚のCDとして成り立つだろうに。発売枚数としては圧倒的に日米盤の方が多いのだから、未収録のトラックをもう少し何とかして貰いたかったものだが・・・・。
  まあ、廃盤になってしまったマテリアルに対して愚痴を言っても詮方ないことであるけれども。
  ところで、前述のように日米盤(以下日本盤に統一)には#1、#7のようなメジャーなアーティストとの共作曲やヒット曲のカヴァーが入っているし、#8はMichael Boltonとペンを取ったという、これまたメジャーな曲が揃えられている。
  まあ、メジャー発売の面目躍如というか、レコード会社の「売りたい」戦略をも感じなくはないが、どの曲も良いので特別批判すべきことではないだろう。

  さて、1991年にJonathanが鍵盤弾きとして所属するBad Englishの2枚目のアルバム「Backlash」を発売したが、内容は産業メロディアスハードロックの良心のようだった1stには及ぶべくもなく、セールス的に大失敗、しかもアダルト路線を目指すJohn WaiteとハードロックをプレイしたいCainの盟友Neal Schonの確執が表面化し、バンドは解散してしまう。
  1992年にはNealが新バンドHardlineを結成した時は、てっきりHardlineにJonathanも参加すると思ったものだが、バンドのラインナップにJonathan Cainの名前はなかった。これ以降のJonathan Cainの足取りは全く掴めなくなる。同様に元Journeyのヴォーカリスト、Steve Perryも全く音楽界の表面に浮かんでこないでいた。
  Cainの前任キーボディスト、Gregg Rolieが結成したハードロックバンドThe StormにドラマーのSteve SmithとベーシストRoss Valoryが参加して全米トップ10ヒットを2曲産み、一時期話題を提供したが、The Stormが次のアルバムをリリースするまで7年の時を待つことになる。
  よって1995年まで、Journey関連のアーティストの動きは全く不明瞭になる。この空白の間、Jonathan Cainが何をどういう活動を行ってきたのかは明らかにはされていないが、どうやら数々のバンドのゴタゴタによる解散劇に疲れていたような心境であったことが、彼のインタヴューから伺える。
  グループにいると、どうも調整に腐心するだけで終始するので、思い切ってソロ作を出したようなコメントを当時の記事で読んだ記憶があるが、この翌年1996年にはJourneyの再結成アルバム「Trial By Fire」にも参加しているため、その辺の意図はどうにも読めない。
  しかし、これ以降Journey再結成に伴うツアーと、再結成ツアーを収録したライヴ・ベスト盤の発売。更に、ソロ作品であるインストゥルメンタル三部作「Piano With A View」(1995年)、「Body Language」(1997年)、「For A Lifetime」(1998年)とハイペースで活動を再開している事実を踏まえると、少なくともこのアルバムがエンジン再燃焼のトリガーになっていることは容易に想像がつく。
  ただ、このソロアルバムの曲を書き溜めるのに4年近い歳月を費やしたかは疑問であるけれども、Bad English在籍時代から書いていた曲が発表されているのは紛れもない事実であるため、1990年代に入ってからの自作曲を集めてアルバムとして構築した作品という側面もあることは間違いない。しかしながら、確かに丁寧に創り込まれたアルバムであるため、ツギハギの各年代の曲をかき集めたという印象を受けることはない。
  Bad EnglishやJourney、そしてBabysで見せたようなキャッチーな曲創りは健在であるが、アレンジをアリーナロック風の華やかで大仰なものにはせずに、抑制の効いた、アダルトロック・ヴォーカルアルバムに仕上げている。AORというほどには地味でアルバム志向でない(欧州盤はAORと呼んでも差し支えないかもしれないが。)けれども、産業ロックのハードポップ路線とは異なり、Adult Rock、Vocal Rockという分類が似合いそうなアレンジで作品を纏めていると感じる。
  むしろ、Jonathan Cainが過去のバンドで書き上げたようなロックンロール・ナンバーやパワー・バラードが全くないことに当初は違和感すら感じたものである。
  が、聴けば聴くほどに、曲の素直さとメロディの良さが染みてくるような内容であり、艶やかさで圧倒する
Journeyタイプの曲は全く存在せずに、じっくりと噛み締めて聴くことが可能なヴォーカルナンバーが終始流れているのだ。勿論、Jonathanの持ち味の美しいスコアメイキングには全く退色はないけれども。
  1995年の時点で既に産業ロックは米国市場で「古臭い音」としてティーンエイジのリスニング層からはそっぽを向かれているジャンルであったが、それはロック・ヴォーカルアルバムも同じようなもので、インディ発売されたことも頷ける内容といえば、的確にコンテンツの方向性が分かろうというものだ。
  まあ、流石にJourneyの復活を待っていた80年代サウンドのファンは大勢いた様で、「Trial By Fire」は全米初登場で第一位を記録する。(失速も早く、即座にCounting Crowsの「Recovering The Satellites」に1週間でNo.1の地位を明渡してはしまうが。)これは例外と言うべきであろうし、明白に内容が力落ちしていた本作はトップ10ヒットを1曲も生まずにファンを失望させ、次作のリードヴォーカルにSteve Perryをも欠いた「Arrival」は全くチャートで受け入れられすらしなかった。
  また再結成した伝説の80年代ロックバンドが、常の如く過去の栄光に泥を塗る作品をリリースしただけであるが、非常に悲しきものがあった・・・・・・。

  やや、話がずれてしまったので、「Back To The Innocence」に軌道を修正しよう。
  欧州盤に次いでリリースされた、タイトルは全く同じだが、米盤よりもかなり遅れて届けれらた日本盤は、CainがJohn Waiteと3枚目のBad Englishのために書いたという欧州盤未収録の#1『Wish That I Was There With You』でスタートする。これはかなりスローでアダルト・コンテンポラリーな、ロックというよりもヴォーカル・バラードである。この曲にもっとドラマティックなシンセサイザーを付加して、ビートを少し上げて、美麗なハードギターをフューチャーすれば、John WaiteがBad Englishのシングル勝負バラードとして歌うのが実に填まりそうである。
  このままのアレンジとテンポではBad EnglishとしてJohnが歌うよりも、グループ以外でソロを作成すると、決まってハードロックから離れたアダルト系のロックアルバムに仕上げるJohn Waiteのソロアルバムの雰囲気に相応しいだろう。
  勿論、Jonathan Cainのハードロック・ヴォーカルとしてはやや落ち着き過ぎて不向きそうに思える声にはとても似合う曲となっている。大体、このナンバーでアルバム全体の雰囲気が決定されていると言っても過言ではないだろう。ギターソロをNeal Schonが弾いているのは一発で分かる叙情的なフレーズが聴ける。
  内容は湾岸事変に出征した兵士の心情を歌い上げているとのことだが、時節を完全に外してしまっているところが、このアルバムの収録曲はあちこちから集めたものであることを薄々感じさせる。
  続く#2『Waiting On The Wind』も非常にゆったりとしたバラードである。Cainのとても堅実なピアノを中心にした曲となっており、サンプリングが散りばめられていた#1よりも素直なアレンジを施されたナンバーとなっている。やや泣きのギターが入ったメジャー・トーンのスロー曲である。やや、Cainの出身であるシカゴ周辺のグレートプレインズの大地の広がりを感じさせるようなダウン・トゥ・アースを仄かに感じる佳曲である。この曲が「Anthology」のセレクトに洩れていたのはかなり予想外であった。
  立て続けに2曲がバラードという構成にはやや意外さを感じていたが、続く2曲、#3『Something Scared』と#4『Full Circle』はロックナンバーというかミディアムよりは速いトラックとなっている。#3はピアノのソロから始まり、徐々に盛り上げていくという手法はお定まりであるけれども、悪くないソウルタッチのナンバー。#4はややJonathan Cain Bandのプログレッシヴとブルースの融合を思わせるような、南部ソウル風のピアノロックとなっている。女性コーラスもゴスペル・ライクでありますますやや泥っとしたサザンロックのノリがある。
  タイトル曲#5『Back To The Innocence』は1990年にグラミーシングルとなったDon HenleyとBruce Hornsbyが作成した『End Of The Innocence』へのアンサーソングとしてJonathanが書いた曲である。1990年の大不況と既存社会制度の崩壊を背景に書かれた、全米第3位まで上昇した名曲の「無邪気に過ごす時は終わりを告げた。」という悲観に対して、どん底からの浮上を果たしつつあったアメリカの経済という追い風を受けてか、「今こそ無垢な心へと回帰する時だ。」と返しているCainの心情が反映するような、繊細で優しさと明るさに満ちた曲である。
  #6『Little River』はこのアルバムの中では産業ロックバラードに一番近い、かなりドラマティックなバラードになっていて、ストリングスも絡めた大作バラードである。人生と子供の成長と言うテーゼを川に見立てる歌詞は斬新なものではないけれども、JourneyやBad Englishらしいバラードがやっと登場して何やら安心感を覚える曲でもある。。
  中盤は美しい曲が続くが、極め付けがJourney時代のヒット曲のセルフ・リメイクである『Faithfully』であろう。「Frontiers」のメイキング・ビデオというかなりレア(当時はそうでもなかった様に思えるが。)なビデオを見たことがあるか、またはお持ちのファンなら記憶しているかもしれないが、その中でJonathanがピアノ1本で弾いていたシンプルなアレンジが公開されていたけれど、それに近いヴァージョンの「時への誓い」が収録されている。産業ロックの大仰さというか派手さには欠ける、シンセサイザーとサンプリングをメインにした演奏となっているが、Steve Perryのエモーショナルなヒットシングル系のヴァージョンとはまた趣が異なり、味わい深い。ここでもNeal Schonがギターを担当し、Journeyのメインライターでもあった2人の共演が聴けたのが、当時としては素直に感動を覚えたものだ。
  アクースティック・ヴァージョンという程にはUnpluggedのスタイルで纏められている訳ではないが、シンプルなメジャー調のバラードとして思わず聞き耳を立てれる曲になっている。まあ、原曲が個人的に思い入れがあり、聴き込んでいるため余計に良く聴こえるのは確かなのだが。
  Michael Boltonと共作している#8『Just The Thought Of Lovin’You』はBoltonが関わっているため、熱いバラードと思いきや、意外におとなし目のスローナンバーとなっている。終始乾いた音で哀愁さを届けるアクースティックギターの物悲しい音出しが印象的なナンバーだ。
  ジャジーでブルージーな#9『Women Never Forget』は彼の原点がシカゴエリアのホワイト・ブルースにあるのでは、と考えさせるようなソウルフルなヴォーカルとコーラスが厚い曲。
  ここからは美しいバラードが続く展開となる。#10『My Old Man』はCainの父親の臨終に際して書き上げた歌であるが、悲壮感はあまり感じられず、人生を謳歌した父親の満足感と永遠の安息を得たことへの安らぎを歌うかのように雄大なバラードとなっている。デライトフルな明るい演奏が、こういった父親の役割の継承が面々と受け継がれていくという人生の営みに対して、素直に感動しているCainの心情を代弁しているようだ。
  #11『Distant Shores』もこれまた高い空を見上げるような爽やかな空間の拡がりが見えてくるような、ふんわりとした肌触りのあるバラードである。タイトルの如く、青い海、白い砂浜、打ち寄せる波、白いカモメの合唱というような西海岸のどこかのビーチの風景が浮かんでくるような綺麗なラヴ・ソングである。
  #12『When The Spirit Comes』の泣きのバラードで、更にバラードが続くので、やや後半の変化が乏しいという不満がないこともないが、どの曲もメジャー・コードの美麗なスロー・ソングであるため、聴き心地はとても柔らかくてつっかえるようなトラックはない。
  最後の#13『Baptism Day』は少年時代にCainが溺死しかけた経験を謳っており、死に直面した水の青さがヴィジョンとして浮かんでくるような底の深さを思わせる。まるで川の深みに身を沈めて水面を見ているような静謐な世界を見た心境をメロディに変えて感動として表現したようなナンバーだ。

  以上13曲、捨て曲は全くなく、これ以降New Age系のアルバムしか作成しないのがとても惜しくなる内容のアダルト・ヴォーカルアルバムである。
  産業ロックのハード・ポップやプログレッシヴな浮遊感を期待して聴くと、かなり肩透かしを喰らうだろうアルバムであるけれども、バラード系のアダルト・ロックとして聴けば、下手なAORやヴォーカルアルバム等よりも全然質の高い作品となっている。
  2001年にJonathan CainはJourneyのキーボーディストとして、レコーディングと全米ツアーにも参加していたが、その後ベスト盤と、2002年のソロ発表を追ってみると、セールス的に大沈没したJourneyが空中分解したためもあるだろうが、またもソロワークの路線に戻ったようである。
  最新作がノン・ヴォーカルアルバムらしいのは実に残念だ。もう一度、このアルバムのような、またはBad 
Englishの1stのようなダイナミックなロックアルバムでも歓迎するので彼のヴォーカルをフューチャーしたピースを是非とも届けて欲しい。
  Jonathanも50歳の大台を2000年に突破しているが、まだ余生を送るには早過ぎる才能の持ち主であると信じている。裏方を地で行くようなインストゥルメンタル作よりも、自己の魅力をアピールするロックアルバムを望んで止まないのだ。  (2002.2.12.)


  Third Stage / Boston (1986)

  Arena&Progressive             ★★★

  Pop                 
  ★★★★★

  Rock               
★★★

  Adult.Contemporary 
★★★★★


  本レヴューを書いている段階で、西暦は2002年になっている。まあ、何時までこのHPが存続しているかは定かではない。(20ヒット以下が3日連続したら、公言の通り、即座に閉鎖するつもりやし。)
  そんなことはどうでも良いのだが、兎にも角にも2002年である。Bostonがこの3作目である「Third Stage」をリリースしてから丁度16年、4thアルバムである出さなきゃ良かった「Walk On」をリリースしてからは8年目に当たる。
  未だ噂やゴシップの域を逸脱しないのだが、Bostonアルバム発表8年周期説によると、今年2002年に5thアルバムがリリースされるという話が出ている。正直全くアルバムが出ることを期待していない。あまりにも「Walk On」とその3年後にリリースされた「Greatest Hits」に入っていた新マテリアルの出来が酷過ぎたのが原因である。
  特に、「Walk On」はBostonというより単なるアリーナロックバンドに成り下がってしまった事実をまざまざと見せ付けてくれたアルバムであり、涙を禁じえなかった。
  Blad Delpがヴォーカルでない
Bostonなんて単なるボストン・バッグじゃああああ!!(謎)

  と声を大にして言いたい。(既にやってる。)がしかし、Tom Scholzが存在しないと、Bladがヴォーカルを担当しているプロジェクトであるRTZやOrion The Hunterと同じになってしまうのも確かである。(これらのバンドはそれはそれで良いアルバムを作成しているのだが。)
  やはりBostonというバンドにはヴォーカリストのBlad Delpのハイトーン・ヴォイスとTom Scholzのコンポーズとアレンジ、そしてギターがなくてはならない。
  プログレッシヴ・ハード、産業ロック、AORロック、アリーナロック等々幾つかの呼び方をされるBostonであるけれども、“Bostonのサウンド。”、“Bostonのアルバム。”といった「彼ららしいロックンロール。」、つまりBostonのサウンドは他の追随を受けない独自な音楽という認識を植え付けている、稀有なバンドであると思うのだ。特に、デヴューアルバムで展開したハードでプログレッシヴな空間のあるサウンドにアクースティックな音色を織り込んだサウンドは後の産業ロック・アリーナロックの雛形になる程のマスターピースになっていることは、今更言うまでもないだろう。それ程に独創性のある音であったのだ。
 まあ、8年周期説のように、寡作を黙認されている段階で、このバンドが別格である証明になってるだろうが、やはりとんでもない超寡作バンドである。もちっと創らんかい!!!
  もっとも、筆者も4thアルバムを聴くまではオリンピック2回(1992年のアルベールビル五輪からオリンピヤードの変更で2年ごとに夏季・冬季が見れるようになったので、8年で4回・・・・・。)分を待たないと届かない彼らのアルバムの遅さに辟易しながらも、内容良ければ敢えて許すという派に属していたのだが。
  しつこいが「Walk On」はAlan Persons Projectのアルバムでも、絶対に余分なシャウト・ヴォーカルで浮いていたDavid何某にまでリード・ヴォーカルを担当させるような、ゲストヴォーカル多数で凌ぐ形式という許すべからずな暴挙をとっているため、Bostonのアルバムとは認めない。故、除外対象である。
  が、一般的には今回レヴューをする「Third Stage」も熱心な(というか1970年代からのオヤヂリスナー)Bostonのファンにはあまり受けが良くないアルバムである。
  曰く、嘗ての躍動感溢れる豪快さが欠如している。AOR(Adult Contemporary)化が進行し過ぎてロックの醍醐味が薄くなった。音的に緊張感がなくなり力の抜けたような弱いサウンドになってしまった等々。
  確かに、「Boston」「Don’t Look Back」の1970年代にEpicに残した2作品と比較すると、雄大さと幻想的にも感じる浮遊感は薄れているだろう。また、ハードであるけれどもディストーションは全くない美麗なギターノイズもトーンダウンしているのも確かだろう。
  1990年前後、Unpluggedが大流行していた節には、口さがないかなり辛辣なファン連中に「Boston 
Unplugged」アルバムと揶揄されていた記憶もある。

  が、本質的にはBostonの前2作と方向性は変わっていないように筆者は思える。メロディの良さは全く不変であるし、豪華絢爛であるが、聴いていると疲労を感じることもあった1970年代の2作に比べると適当にリラックスしていて親しみ易いサウンドプロデュースになっていると感じる。
  第一弾シングルとなり、8年のブランクを置いたことなど微塵も感じさせずに全米第一位に輝いた『Amanda』を聴いた時は、即私的にBostonの最大の名曲である『More Than Feeling』(邦題:『宇宙の彼方へ』。このタイトルも非常に好ましい。最近の横文字オンリーの味気ない邦題とは全く趣が異なる。)を思い出してしまった。且つ、8年前と全く変化のない音に、安心し、少々であるけれども呆れてしまった。
  何でも、Tom Scholzは「Don’t Look Back」のツアー以降は文字通り、地下に潜っていたらしい。1970年代には個人所有としては破格の装備であった12トラックのレコーディングスタジオを、Tomが自宅の地下室に作り上げ、そこでレコーディングやミックスダウンを行っていたのは有名な逸話である。
  Tomは読んで字の如く地下のスタジオに籠もり、コツコツと曲を書き続けていたそうだ。その間、流行のヒットソングはおろか、ラジオにすら全く耳を傾けずに、1980年代のポップロックを全く耳にインプットせずに作成したのがこの「Third Stage」ということだ。
  まあ、筆者も現在の日本の売れてる(らしい)アーティストの顔は殆ど知らないし、曲もさっぱり分からないので、会社の飲み会でカラオケに行くと変人扱いされるくらい現状の音楽を鎖国しているので、決して不可能ではないだろう、こいった情報シャットアウトは。
  しかし、この偏執とも言うべき拘りが、やはりTom Scholzは音楽人間であると共に、音響マニア・技術屋ということが分かる気がする。Tomがミキシングに時間をレコーディングよりも長大に懸けるというのは、知らない人がいないくらい有名な話だろう。「Don’t Look Back」で1年以上かけたのだから、このアルバムではその倍くらいは軽くかけていても不思議はないだろう、と想像していたらやはりクレジットに「1曲のレコーディングに5年懸けた。」とか「4年前の『Cool The Engines』のテープが湿気のためベトベトになって張り付き、使い物にならなくなった。」とかいう記載を読んだ時、案の定と思ったものだ。
  最早脱力するしかない拘りというか、オタッキーな録音マニアである。
  #8『I Think I Like It』が1985年から86年にかけての作とクレジットされているが、それ以外は1980年を始めとした数年間に渡って書かれた曲が並んでいるので、古く創られた曲にかけられた時間を想像するだけで気が遠くなりそうである。
  しかしながら、録音の虫、ミックスダウンの音の構成の鬼の癖に、Tomはこのアルバムをいつものように、シンセサイザーもコンピューターもシークエンサーも使用せずにアナログで作成している。理系の最高峰の頭脳が集まるので有名な、マサーチューセッツ工科大学(M.I.T.)を卒業している学士のミュージシャンであるTomなので、特に最新電子機器に疎いという訳では絶対にない。
  よって、時代的には最新鋭の録音機器を使いさえすれば、もっとクリアでデジタルな録音が出来た筈なのに、この「Third Stage」の録音はそれ程クリアには聴こえない。音響マニアではないので、やれ波長がどうとか、音の重なりがこうとかには明るくないので、何ともコメントのしようがないのだが、1970年代の技術とは思えないくらい、素晴らしいレコーディングの音をレコードの溝に記録していた前2作と照らし合わせても、相対的に劣る録音状態であるような気がする。「Don’t Look Back」までが時代を先取りし過ぎていて、1980年代も半ばになり漸く一般の録音技術が、Tom ScholzとBostonに追いつき追い越したのだろう。
  それにしてもロケットのエンジン音や雷鳴、それに『Amanda』で印象的に挿入されているベルのような音、これら全てが、アナログ的に創られた音である。
  やはり、どう考えても
  無駄な労力にしか思えん・・・。(笑)
 シンセサイザー使わんかい!! 

  その方がアルバムを発表する間隔の回転が上がるように思えるのだが。
  例えば、『Amanda』のベルサンプリングのような音はエレクトリック・ギターを使って出しているとクレジットにある。
  #3『The Launch』ではアナログ式の大ホール用のパイプオルガンを使用して、メカニカルな飛行音を演出しているとのこと。また、同じく#3『Launch』での3部構成のAパート『Countdown』での雷鳴は、当時で20年前−つまり1960年代製である集積回路の調子の悪い変声用のチューナーで音を出したそうである。
  そこまでする必要は絶対にないのは万人の同意を得そうだが、その拘りと思い入れだけは驚嘆に値する。何事も徹底的に極めれば、その熱意はサウンドに反映する、いや籠るだろう。勿論、その思い入れを過不足なく表現できる手腕−才能と呼んでも誤解を受けることはないだろう−があればの話であるが。
  さて、アナログ録音、ミキシングもダビングもアナログ機器のみ使用というアルバムには、シンセサイザーが禁止となっているため、鍵盤類が相当細かく使われている。
  グランド・ピアノ、エレキ・ピアノ、大空間用のパイプオルガン、旧型のウィルツアー・ピアノ、ハモンドM3というロック鍵盤としては相当珍しいかなり古いモデルのMを使用している。
  電気ピアノとウィルツアー・ピアノ、そしてハモンドM3はコンピューター制御でない電気鍵盤を使用しているので、完全にはアナログ・キーボードとは言えないが、デジタル楽器でないのでやはりNo Computer、No Synthesizerのクレジットに偽りはないだろう。
  まあ、繰り返すが音源マニアでもないし、音響機器には全く拘らずに4桁の再生機器を未だにだましだまし使い続けているので、このくらいで楽器の薀蓄は終わりにしよう。

  前述しているが、ハードでダイナミックな70年代Bostonのアルバムからすると、かなりロー・ファイ(比較の問題であるが。)で優し目の音構成だろう。アクースティックさも以前のアルバムで頻繁に聴くことができたが、非常に際立つような直截的なアクースティックラインはあまりなく、静から動への、エレキからアクースティックへの落差が顕著な前2枚ほどの変化は付いていないだろう。
  が、全体として手を掛けて掛けて掛け捲ったような6年間の歴史はそれ程見えてこないような自然なサウンドプロダクションが1stや2ndアルバムよりも柔らかい肌触りである。
  しかし基本は、地下に潜っていたのが納得できるくらい時代に流されていない(というか時代を無視しているかのような)アリーナロック系の音である。
  それよりも、一番の注目点はBlad Delpのヴォーカルであると思う。8年の歳月を経ても全くその美声は色褪せることはなく、むしろ艶と透明感、そして存在感がグンとアップしている。1984年にこの当時既にBostonを脱退していたBarry Goudreauと結成したバンドOrion The Hunterで既にその甘く綺麗なヴォイスは健在であることを証明はしていたが、どちらかというとメロディアス・ハードロック系のOrion The Hunterでは伸びやかに歌うというよりも、力を入れ過ぎて彼本来の持ち味がやや欠如していたように思えた。
  また、Bostonの厚いコーラスワークあってのBladのスウィートなヴォーカルという既存観念があったため、違和感を感じてしまったことも否めない。
  しかし、このThird StageではBladの魅力が完璧に発揮されている。単なる甘いハイトーンのヴォーカルの枠を越えている大人の円熟味を加えた、高く高く成層圏まで届きそうに伸びのあるヴォイスが、何処までも気持ち良い。またBostonならではのバックヴォーカルのオーヴァー・ダビングが更にプログレシッヴ・メロディアスの旗手としての存在感を十全に主張している。
  「Third Stage」におけるサウンドのパワーの足りなさを嘆くファンも、Blad Delpのヴォーカルだけには太鼓判を押すのではなかろうかと想像している。この美しい産業ロックのヴォーカル・ワークを聴くだけでも、本アルバムを手にする価値はあると思う。

  さて、アルバムはBostonの有する魅力の一つであるアクースティックさが遺憾なく発揮された#1『Amanda』でスタートとなる。先行シングルとして発売され、8年間のブランクを何処吹く風とばかりにビルボードチャート51位でランク・インし、6週間後にはトップシングルとなった名バラードである。
  シンセサイザーで創作したに違いないと、普通に聴けば考えるのが間違いない陶器製のベルのような音、またはウィルツアー・ピアノでも搾り出せそうな浮遊感のあるメロディ。ジェントリーに流れるアクースティックなギターの音色といい、1980年代ならNo.1ヒットになって当然のような曲である。筆者が一番好きなパートはファースト・ヴァースの後のチン♪という鐘の音(?)である。しっかりとアクースティックな流れに乗っかってくるエレキギターが、次第に力強く上り詰めていく構成は、ヒットバラードの典型であるだろうが、その定型なサウンドの組み立てが分かっていても素直に良いと感じる、つまり名曲である。#5『My Destination』でウィルツアー・ピアノがノスタルジックに響く#1の別ヴァージョンが聴ける。この曲もシンプルではあるけれどもBladのハイトーンなヴォーカルが感動的な小作品である。アンプラグド・ヴァージョンという訳ではないが、鍵盤弾き語りに近い曲なのでアウトテイクに近いかもしれない。がしっかりとしたリプライズ曲、しかも歌詞は同系統のラヴ・ソングであるとはいえ違う内容である。やはりリプライズナンバーとして楽しむのが妥当だろう。
  このアルバムからは更に2曲のヒットシングルが生まれているが、#1に続きトップ10ヒットになった#2『We’re Ready』(第9位)と#9〜10のメドレーソングとなっている『Can’tcha Say(You Believe In Me)/Still In Love』(第20位)はどれもヒットして当然の曲であるが、当然ヒットするべきナンバーがヒットしていた1986年から1987年というのは何と健全な音楽市場が形成されていたことか。
  #2『We’re Ready』はもっと上のチャートにランクされてもおかしくない軽快なロックナンバーである。『Peace Of Mind』や『Feelin’Satisfied』のように常にBostonが2ndシングルとして切っていた伝統を素直に受け継いだようなシングル・カットのパターンを踏襲したロックチューンであり、しかも2枚目のシングルとしては最高位にランクされた。8年ぶりの成功が懐古ファンの一時的な購入でないことを証明したようなナンバーでもあるだろう。
  特に、インタープレイのカウントダウンは、8年ぶりの「準備完了」を示唆しているようで、とても前向きな雰囲気が充満している。この2曲が素晴らしいのに、続く#3『The Launch』と#4『Cool The Engines』は更に筆者のお気に入りである。
  ややプログレッシヴな空間的な広大さがこのアルバムではトーン・ダウンしているが、このメドレー式に続くナンバーはパイプオルガンを使ったプログレッシヴ・インストゥルナンバーである名曲『Foreplay/Long Time』の1980年代ヴァージョンとも言うべきプログレ・ポップロックの傑作である。高音域をシャウトするBladのヴォーカルがOrion The 
Hunterの歌い方よりもフックが効いていてとてもスペイシーで爽快なナンバーである。#3のインストゥルメント・トラックがやや単調でダークではあるが、そのギャップがこれまたメリハリが効いていて好感が持てる。
  これまた嘗てのヒットナンバーである『A Man I’ll Never Be』を更にアダルト・コンテンポラリーに調理し直したようなメドレーバラード#9〜10『Can’tcha Say(You Believe In Me)/Still In Love』はアクースティックピアノがとても美しい点が共通の美点であるのだが、更にメロウになっている。激烈にハイトーンなア・カペラコーラスからいきなり曲に入るオープニングといい、徐々に電気ギターが雄大に盛り上げていく曲の流れは、これまた整理しきれていないためかトップ20で留まったが、ソリッドに仕上げればトップ10ヒットも夢でなかっただろう。
  が、それこそが曲の組み立てに拘るTomのディレッタントな意地かもしれない。
  アクースティックでありなおかつ宇宙空間を、ジャケットのアートワークを連想させることにおいて#4と同格なナンバー#11『Hollyann』も奥行のある爽やかなプログレ・アクースティックとでもジャンルを確立できそうな壮大なナンバーとなっている。
  一番新しく書かれた#8『I Think I Like It』は、これまたシングルにしても良かったようなミディアムなポップロックチューンである。この曲のみメンバーにクレジットされているギタリストのGary Philが参加しているが、他の曲ではプレイをしていないようなのにメンバー扱いをされいてるのがやや不可解である。Barryが抜けたことによって、ハードラインなギタープレイがやや影を潜めたようにも感じるが、このような普通のナンバーがあった方が聴き疲れしなくてほっとする面もあるだろう。
  そして、最高に悲しげな#7『To Be A Man』ではまたしてもBladのヴォーカルが感動的に哀しい。しかし、ウィルツアー・ピアノや電気ピアノが思い切り使われているナンバーでもあり、過去の2作品よりも鍵盤の比重が増していることが実感できる曲でもあるように思える。ギタリストが事実上Tomひとりとなってしまった結果だろうか、それとも落ち着いた路線を目指したのか、時にはノイジー過ぎるくらいのジャケット絵を具現化したようなスペイシ-なギターのトーンが沈静化しているのは、物足りなくも感じることもある。が、概ね筆者には丁度聴きやすいので歓迎しているのだが。

  以上、11曲である。Tomはこの当時、Epicに契約で交わした数のアルバムを作成しなかったということで(その気持ちはかなり理解できる。10年で3枚では・・・・。)長期の訴訟にあり、それもレコーディングが遅れた原因とされることが多い。
  が、係争・裁判沙汰の中毒のようなアメリカでは珍しくない風景であるし、裁判を抱えつつもリリースを順調に行う図太いアーティストも結構存在するので、それだけが原因でないだろう。
  結局、Epicが強豪にアルバムの作成を求めたことが心理的な圧迫となってしまったというTom側の主張が通り、7年以上に渡った係争はTomが勝利する。しかし、更に元メンバーのBarry Groudeauからもリリースの間隔が開き過ぎてしまったために、自身の音楽活動に支障が出た責任を追及され、裁判になり、結局は示談で解決したらしいが、どうもやはり極端に寡作に走ったしっぺ返しが来ていた風である。
  何事も極端すぎると反動が必ず襲ってくるのだろうか・・・・。筆者も色々気をつけるべきかもしれない。(汗)
  それにしてもこのアルバムがリリースされた時は、冗談で「次はきっとまた8年後の1990年代にならないとアルバムが出ないんやないかねえ。」と音楽仲間と語り合ったものだが、まさか本当になるとは想像をだにしなかった。
  その経験故か、1994年の作品、「Walk On」では「これが20世紀最後のBostonのピースやろ。」という予測は冗談にならなかったのだ。(苦笑)もっとも、筆者はこの4thをBostonの創造するレヴェルのアルバムとしては考えていないので、今年もしも5枚目が出たとして、鑑賞に耐えられる出来であったらな16年ぶりの良作となるわけであるが、考えてみると16年にしろ8年にしろ実に長い。長過ぎる空白だ。
  このアルバム発売当時は現在の年齢の半分であったことを、流れてくる曲に耳を傾けながら思い出したが、サウンドの新鮮さこそ退色してしまったが、音楽の良さは全く変わらないと認識した次第である。
  やはり良い音楽は何時の時代に聴いても受け入れることができるのだ。
  その意味において、やはり「Third Stage」は傑作アルバムだと思う。・・・・・それにしてもちゃんと5枚目が出るのだろうか、このバンドは。それが最大の気掛かりであるのだ。  (2002.2.14.)  

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